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今朝、酒井信、先崎彰容、宇野常寛のYouTube鼎談をみて思ったのは、

今朝、酒井信、先崎彰容、宇野常寛のYouTube鼎談をみて思ったのは、

戦後の社会の表層を流れていった現象を、

江藤淳、吉本隆明、三島由紀夫の視点から追析しているのであるが、

まだまだ、彼らには、

その表層しか見えてないなぁという感想を、

持ちました。

特に江藤淳に見えていたこと、

さらに、

吉本隆明が掘っていたことの底の底にあるものが

何であるか,という事。

逆に三島由紀夫が、

本当は突き止めなければいけなかった、彼自身の現像を、

安易にすり替えたことに対しての

鋭い慧眼の分析は

まだまだ彼らには無理なのかなぁと思いました。

江藤淳が何に絶望して自死をしたか、

そして吉本隆明が見抜いていた、

人間の根源的な姿と、

なぜ社会は破綻せざるを得ないかという、

解決不能な人間の、

本性的宿命。

さらに、私には全く子供じみた精神史しか描けなかった、

三島由紀夫の未熟さ。

三島はもっと生きて、本当は、

最後まで、突き詰めて、突き詰めて、

突き詰めなければならなかった、自分の精神の根源にある、

惨めな自分の姿を

中途半端に擦りかえた。

それは、人間の精神の、精神の、

底の底にある、本当は見たくない、

あるいは見たら、自分が自己崩壊しかねない、

自分という現象です。

彼がかっこよく、振る舞い、自分の腹に刀をつき刺さざるを得なくなったのは、

すり替えた、自分を許せなくなったからでしょう。

私がなぜ、夏目漱石とドストエフスキーを尊敬するかと言うと、

彼らの目に見えていたこと、

それを一部の隙もなく、厳しく突き止めて行ったその先に見つけた

着地点の凄さである。

それがわかればわかるほど、

口は重たく、黙るしかない、

黙って見ているしかない、人間と言う現象です。

漱石が書いた文字の奥に、

あるいは、ドストエフスキーが書いた、

饒舌とも思えるような言葉の奥に、

うっすらと、影のように、

うっすらとしか見えないものを、

探って探って、

手繰って、手繰って見えてきた、

その何とも言えない、悲しい、そして、

深い絶望の先にある、

小さな小さな光を、

私も見つけたと思います。

それが見えなかったら、私は自殺したかもしれない。

二人には感謝しかない。

そこにこそ、壮絶な文学というものの、

使命と価値がある、と思います。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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