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吉本隆明も、江藤淳も、人間の下意識深くにある、コントロール不可能な人間の自我の世界を見ていたと思う。

吉本隆明も、江藤淳も、人間の下意識深くにある、

コントロール不可能な人間の自我の世界を見ていたと思う。   

それは深い理知の考察を伴うことなく、大衆が暴走する現象となる。

それをポピュリズムと言うなら、

江藤先生は、その風景を見ながら絶望したと思う。

ある種の無知が大衆のポピュリズムとして、

戦後、アメリカ文化が日本人の生活に浸透していくのを、

指をくわえて見ているしかなかったのも、江藤にとっては、

苦しかったろうなぁと思う。

吉本も同様な洞察を持っていたが、

吉本はその大衆の愚の奥にある、

生命力をも見ていた。

吉本はどこかで国家から自立する大衆の生命力を、

信じていたように思う。

だから晩年の吉本は大衆に優しかったように思う。

三島は下意識を掘ったには、掘ったが、ほんのちょっとだけほっとに過ぎなく、

だから、彼は流麗に言葉を着飾った。

あのチンケな制服を着て軍隊を真似、盾を持って自分を偽装した奥には、

自分の自我を叩き、潰し、自分を丸裸にしていく作業を怠った三島がいる。

彼は、本当は、みすぼらしくうずくまる、自分の姿を、

直視しなかったと思う。

ゆえに、着飾った三島はどんどん過剰になっていくしかなかったと思う。

ゆえに、

三島は大衆を鼓舞する自分を偽装するしかなかったんじゃないかなー。

作家の目と言うのは、まずは自分を厳しく解体しなければならない。

しかしそれができる作家の方が稀なのかもしれない。

それは、評論家も同じで、

鋭い慧眼と感性を持った評論家も、

昨今は、もうほとんどいなくなったのかもしれませんね。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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