私はこのところ、もう古典的哲学となったウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読み直しました。
なぜなら、言葉について確信を得たいと思ったからです。
若い時にも読みましたが、チンプンカンプンで、また今読み直しても、似たようなものですが…笑!
ただひとつ大いに確信したのは、
この本はまさに脳の世界を言い当てている、と言う事です。
人間がなぜ言葉を発明したか?
なぜ、言葉が生まれたか?は
人間が単に瞬間に反応する大脳旧皮質だけではなく、
その旧皮質の外側に、時間軸を持った新皮質を発達させたからです。
反射的な記号としての言葉から、思考する時間軸の中で、
言葉が単なる記号から生命力をもち、エネルギーになり、
その人間の人生の意識構成を作り出していきます。
つまり、人間が猿から人間になっていく大事な要素は、
考える(思考)という時間軸の脳(前頭葉)を獲得したからです。
ウィトゲンシュタインの有名なことば「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」ですが、
その言葉を展開する前に彼は
●「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
●「思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、
思考しえぬことを、われわれは語ることもできない」
●「世界が私の世界であることは、この言語の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。」
と書いています。
脳の観点からいうと、こっちの認識の方が凄いです。
脳は、個々の人間の限界で閉じられています。
つまりその人は、自分の脳の中にある情報を通して、
外的世界を、解釈したり、分析したりして、自分を納得させているに過ぎないのです。
だから同じものでも、100人いたら、100とおりの解釈があると言う事です。
※これはいつも私が云う、個々の人間の脳は、それぞれの個々のカプセルに入っているようなものだ、と云うことです。
そして、
本当は広大な脳世界を人間は有していにも関わらず、
そのほんの一部しか言語化できないジレンマの中を人間は生きるしかないと、言う事です。
※これについては、我がブログ<遺言>でシリーズ「脳は空より広いか」で書いています。
思考は、
その人の脳の中にある広大な情報の中から、その人の脳が焦点化して、
思考素材として意識化していきます。そして、
その人が思考して、言語化できたものだけが言葉として、
他者や外的世界に向かって発しうるものであり、
その貴重な言語をどのように扱うかかを人間は常に問われているのです。
この事は、後日機会があれば、詳しく書きます。
つまり人間は常に生々しく思考し、貴重に発露される言葉を、本当は、
大切にせねばならないのです。
その限られた言葉は、その人の思考世界そのものであり、
我々が、自分で理解しうる
(意識しうる)
大切な自己世界なのです。
だからこそ、
田下憲雄氏は、社員の前で話す時は、
必ず原稿なしで、自分の生の言葉を伝えようとしました。
それはいつも、社員と直に向き合い、その息吹や反応を体感しながら、
自分の考察した事を、生き生きと伝えたいからです。
自分の限界をふまえながらも、
目の前にいる生きた人間(社員)と、
瞬間瞬間にエネルギーを交換しながら考察し、
次々に湧きでてくる生きた言葉を伝えたいからです。
彼は、紙に書いたものを読み上げるなど、
もってのほかだと、考えていました。
自分の思考、自分の思いを、
●核心を衝く生きた言葉で伝えたい。
その言葉を聞いている社員への、
全幅の信頼を持って、
俺は、こう考えていると、伝えたい。
壇上から、紙に書いて用意した言葉を読み上げなど、愚の骨頂であり、
それは、社員を自分より目下にみている愚でしかない、とも
考えていたようです。
リーダーとしての責任を果たす時、
伝えきれない事をいかに伝えようとするか。
それは、全身全霊を持って、
社員の前に自分をさらすことでもあります。
朗々とした弁でなくとも良い。
感情や心が伴った生きた言葉で、
繋がろう、と!
○
コロナ初期の頃、菅元総理が、官僚が書いた紙を読み上げるのを見て彼は、
メルケル首相のように、自分の言葉で国民に語りかけろ、と怒っていました。
それがたとえしどろもどろであっても、国民を思う言葉であったら、
必ず国民に伝わり、国民はうけとめる、と。
もう一度、
ウィトゲンシュタインに戻ると、
語りえぬものについては、沈黙せねならない、
ではなく、むしろ私は
言語を尽くして、伝えようとせねばならない、と思います。
脳の解明が進むにつれ、
伝えようとするそこから、
語ろうとするそこから、また、
新生な世界が開けてくるのだと、
思いますからね!


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