どうして漱石がすごいかというとね。
明治維新以来、日本は今まで見た事も聞いたことも無いような西洋文化に圧倒されます。
むしろ日本人としてのアイデンティティに依拠しながら,
新しい時代と人間を見ていました。
時代に流されず、
世の動勢を見極めていく漱石の、
自己確立の確かさに、驚かされます。
当時、文学においては、
今までの江戸趣味の勧善懲悪とか、切ったはったの物語ではない、
新しい西洋文学の模倣が始まります。
人間の内面の心理と人間関係性の
西洋風物語を書かんといかん!と、
かの坪内逍遥や二葉亭四迷やらが
しきりに言い出しました。
それに鼓舞されて、
作家達は、心理学に基づいた、
ストーリーの面白さが主軸の
男女の恋愛ロマンのあれこれや、家族のあれこれ、
自然主義文学の自己懺悔や田山花袋のような自虐や
正宗白鳥や社会正義などなど、
新しい小説文学が書かれていきました。
しかしそれらは,あくまでもストーリー(筋)の内容が主軸です。
そしてそれらが文壇の主流を占めていくわけです。
※漱石は場合は、ストーリーではなく、ストーリーの奥にある人間の、
自己葛藤が主軸です。
しかし、西洋文学にあこがれ、これからは心理ぞよ,と旗を振った坪内逍遥も二葉亭四迷も、
実際は、じかに西洋に行ったわけでも、見たわけでもなく、
さらに彼らの憧れには、その反動としてのナルシズムがはりついていました。
まあ当時の文壇が、
西洋の実体も知らずして、
いわばガラパゴス的に盛り上がり、ざわついたという訳です。
江藤氏によると、そのながれは今も文壇の主流だと言う事ですが。
では実際にドイツに行った鴎外はどうかと言うと、
鴎外はドイツで恩師とも言うドイツ人に出会い,美女と恋愛し、しかもその美女を捨てて帰国しました。
だから鴎外は、ある程度,西洋との距離を保ちながらも、
それなりに西洋に対しては、
敬礼!って言う感じです。
そして鴎外は自分に比べて、
あまりにレベルが低い日本の文壇を嫌ったふしがあります。
また,鴎外の作品や文体はある格調があります。
私には鴎外は案外古典的な秩序を好む人であった気がします。
そしてもう一人、永井荷風はもう、すっかりフランスかぶれになって帰国しました。
このオッさんの奇妙で自己中の奔放な振る舞いは、
まさにフランスの個人主義に浸かり切った賜物でしょう!
そう中で、漱石ひとりが、西洋の本質,本性を見抜いてしまうのです。
西洋人の持っている他人種に対する優位性や征服欲や,明らかに日本人とは違うものを感じます。
更に産業革命を經たロンドンは,煤煙とスモッグでうす汚く,
漱石は美しい田園が消えた19世紀の産業化したイギリスを不快に思いました。
つまりこの辺りから漱石は、
西洋文学や、西洋的進歩,と言う事にかなり懐疑的になります。
日本の文壇や作家達とは,全く違う位相から海外を眺め,
人間や時代を見ているのです。
と同時「行人」の中では、
人間の欲望が科学テクノロジーによって進化してゆくことの懸念を書いています。
「人間の不安は科学の発展から来る。
進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まることを許して呉たことがない。
徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、
どこまで行っても休ませてくれない。
何処まで伴れて行かれるかわからない。
じつにおそろしい。」
と書いています。
どうでしょう、まさに私達の現代の不安そのものではありませんか。
時代を超越して人間の本質を見抜いて行く鋭い目が、漱石にはありました。
このまま西洋化し、テクノロジー化していくと人間社会はどうなるのであろうかと、
西洋に批判的な目を向ける漱石は
翻って、
日本と日本人の世界の何処にもない、日本の良さも見えたと思います。
だからこそ、英文学の専門家でありながら江戸文学や漢文の世界観も持ち続けました。
私流にいうなら,彼の日本的アイデンティティが、壊れていない。
こうして英国,西洋に鋭い目を向けて帰国後に、
まあ、暇つぶしに面白半分で書いたのが「吾輩は猫である」ですね。
まさに日本人のオッさんと、
人間に対し、上から目線の猫です。
その次に書いたのが、いかにも日本型直情径行の正義感の「坊ちゃん」
そして新しい時代と伴に
古い因習から脱し、
新しい関係性のを男女を模索する
「三四郎」をかきました。
stray sheep です。
更には自分の気持ちや意思を通す事を試みる「それから」
そして、
自分の気持ち通し,自分の恋愛を通したそれは.、
結果的には友人への裏切り行為となり、
果たしてそれは
どう乗り越えられるのか、乗り越えられないのか、と「門」を。
「行人」では、
自分の内面にどうしようもなくおきてくる自我の心理現象を追及し、
そこには新しく個としての自分を生きようとする人間がいます。
それは、
今までの封建制の日本人にはなかった、
個である自分の気持ち(意志)を通すことの是と非です。
自分を通す事はエゴなのか,どうなのか。
そしていよいよ「こころ」です。
自分の気持ちを通す為に、自分の感情に乗っ取られて友人を突き落としてしまった先生は、
友人を裏切った自分をどうしても救い出す事ができない。
自殺した友人と自分の関係を、どうしても整理できない。
整理できないまま、
しかし,時代はもう個が尊重され個の意志を通す事が許される時代へと
ゆくであろう、その時、
明治天皇が崩御しました。
もう明治が終ります。
古い鎖国の時代から、
新しい、
世界の中の国への過渡期としての
明治の時代が終わる時に、
「こころ」の先生は、その答えを青年に託し自らを終わらせました。
ことの本質を起点に観察、
シュミレーションしていく高い論理能力の中、
漱石が書こうとしたのは、
時代を超越してある、人間の原理です。
人間の原理とは、いつの時代でも、
宿命的に人間が背負わなければならない、脳と体の原理です。
漱石には、その原理が見えていたのでしょう。
だからこそ,テクノロジーに呑み込まれて行く人間の不安と恐れを予言しました。
その上で、漱石は、日本と日本人の内面とエゴイズムを書いていきます。
更に、日本人の自分と,自分を取り巻く人々との関係をどうするか、
それは西洋的人間関係ではあり得ないまさに、
日本の文化圏が作りだす人間関係です。
それを「道草」で書きました。
おそらく「明暗」では、個性溢れる
日本の女性達を描こうとしたのではないでしょうか。
坪内逍遥を始め多くの作家達は、
は小説の基軸をストーリーの面白さや斬新さを人間の感情やナルシズにシフトして書きますが、
漱石の小説は、
感情も含めて衝動化するエゴや、
その抑制の葛藤を、書いています。
そのエゴは、その背後に、
言葉にならない,或いはできない、
沈黙の闇があり、
漱石はその沈黙の闇を描こうとしたのではないかと、思います。
そして漱石の小説には、
他の作家達に見られるようなナルシズムが見られません。
だからこそ作品はどの時代においても,常に問題を提起し得るのでしょう。
これが私がお伝えしたかった漱石の凄さです。
最後に江藤淳氏の言葉をご紹介します。
「生きる人間とは、いかなる理由によっても、
さまざまな秘密の重みに耐えて生きる人間である。
どんな人間でも、
生きている人間は、しばしば現代小説に描かれる人間ほどチャチではない。
漱石は少なくともそのような人間を描かなかった。
人間はいつも自分で解釈できる自分より、ひとまわり大きな自分を持っている。
そのことを知っていたが故に作家漱石はもちろん、
彼の描く人物たちも、
おおむねいつも現実に私の出逢う人間のそれに等しい沈黙の量と、
それぞれの固有なうしろ姿を失うことがないのである。
◯
人間は誰でもが自分の中に、
自分しか知り得ない闇の空間があります。
それは、その人間の沈黙の中で
ひっそりと生きている、という事でしょうか。
それがわかるからこそ,漱石は「ガラス戸の中で」
大変な重荷の中にいる女性に、
「そんなら死なずに生きてらっしゃい」
と言ったのだと思います。

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