宮沢賢治だけじゃないよ、
私もしょっちゅうこの世から逃げ出したくなる。
また言葉を紡ぐ人間として、
自分の言葉がなかなか理解されない事の苦しさも、わかる。
それは読み手が、賢治と同じくらいの教養を持っていないと、なかなか伝わらないのです。
だからこそ、
自分の言葉の理解者である親友、
保坂嘉内に去られた賢治の孤独も悲しみも、
深かったと思います。
そして、唯一の味方であったトシも失ってました。
しかしそこからよく立ち上がりましたねー。
それができたのは、花巻農学校があったからだと、私は思います。
嘉内との絶縁もトシとの別れも、賢治が崩れ落ち無かったのは、
農学校の存在が大きいかったと、
私は考えています。
少なくとも花巻農学校時代の作品には、まだ溌剌とした賢治がいますから。
そして「春と修羅」さらには「注文の多い料理店」と、
賢治がひとつの試練を乗り越え、
さらに自分を透き通らせながら、
それらの作品が書かれていきました。
ただやっぱりいわゆるトルストイ志向は治ってはおらず、
その純粋性のまま、そして
まだ自分を啓蒙者の位置に置いたまま、
理想を求めて、
羅須地人協会を始めてしまいました。
ここからまた、
第二試練が賢治の前に立ちはだかります。
それは拙著「拝啓宮沢賢治さま」で書きましたから、ここでは省略します。
初めて「銀河鉄道の夜」を読んだ時私は、
世の中の評判とは反対に、何て暗い童話だろうか、と思いました。
天才賢治の筆力と表現描写が優れている為に、
宇宙や、未来志向と勘違いされそうですが、
私の目には自己葬祭の小説のように思えました。
それでよくよく調べてみると、
この童話は、4回も書き直されている事がわかりました。
そして第一稿の自由でイキイキとした賢治の奔放さや躍動が,書き直すたびに、
だんだんと消えていきます。
最後の第稿四塙は、たしかに小説としては整っていきましたが、
賢治の奔放性や躍動も高揚もユーモアも消えてしまいました。
それが何を意味するのか。
◯
もーだーれもいなかったのですよ、
賢治の世界を理解者できる人間が。
だーれも、いなかった,そして、
だーれも、
分からなかったのですよ。
その孤立と孤高の世界を。
その孤立と孤独を賢治がどのように解決しようとしたのか。
そして、
なぜ賢治がキリスト教の救いの世界に行かなかったか。
例えば、銀河鉄道の夜でも、
汽車は、十字架の前を素通りしていきましたね。
つまり、
イエスの教えのように、
隣人を愛し、和解しなさい、ならば、
貴方も愛され,受け入れられるであろうという教えが、
賢治の場合リアリティをもたず、
賢治は到底自分が愛され,受け入れらるとは思えなかった,と思います。
そんな中で自分で自分を救い上げるには、
法華経の教えのように、
個人で悟りを開き、
すべてを
超越することしか、
無かったのではないか、と
私は考えます。
そのことを考えると、
最後の手紙で、これまでの自分の世界は、蜃気楼のようなものという賢治の言葉が凄みを持ちます。
この言葉の意味や背景を思うと、
もー全部あきらめたなぁーとも思います。
あきらめたと、言葉にすれば簡単ですが、
人間、そうそうあきらめられるものではありません。
実際は、脳の記憶がフラッシュバックしたり、迷いや感情の昂りという煩悩と、
それを全否定して達観しようと思う自己否定の覚醒の間を、
行ったり来たりと葛藤し続けたと思います。
辛かったでしょうねー。
あの「空晴れ渡る」までの道のりが、
いかに心理的格闘の日々であったかと、
思います。
そう思うとね、
賢治が神格化されるなか、私くらいは、
その人間宮沢賢治の、
孤独と駿山の道を、
書いておこう,と、
思ったのです。
おそらく深い悲しみと、激しい怒りの淵を、ヨロヨロと歩き、
考え続けたのだろうと、
思います。
人はなぜ生きるのか。
自分はなぜ生きるのか。
それを手探りながら、
自分の為ではなく、
他者の為の、その出口と、光を、
賢治は探し続けたと、
思います。
写真は賢治の手帳,第一ページに書かれていた、
「當知是処 即是道場 諸仏於此 得三菩提」の文字です。

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