宮沢賢治ほど、その純粋性が、
出版社の商業主義や、はては太平洋戦争推進まで利用されたにも関わらず、
なぜなら、彼が一心に思い、願い、そしてもがき続け吐き出した言葉そのものに、
生命力が宿っているからだ。
あれほどトルストイに憧れ、
自分をそこに重ねて生きようとした
賢治の無類の純粋性が、
言葉の中に息吹を与えて続けたからだ。
それと同じような現象としては、ゴッホがいるかも知れない。
ゴッホもどちらかというと、メシア症候群の人で、一時は聖職者をめざすが挫折し、画家になった。
ゴッホの目線もいつも民衆にそそがれており、
存命中は殆ど無名でありながら,その死後、
彼の絵は圧倒に民衆の中へと浸透していった。
賢治の言葉にアカデミズム的示威がないように、
同じように
ゴッホの絵もアカデミズム的でなく、むしろ愚鈍なくらい、
彼が感動したことがそのまま描かれている。
ゴッホは売れない画家たちの生活をなんとかしたいという思いから,
アルルでの共同生活を提案し、
そこにゴーギャンがやってくる。
ゴッホの手紙を読むと,あんなにゴーギャンを尊敬していたのに、
二人は亀裂し、
ゴーギャンによると、ゴッホがカミソリで自分に斬りつけてきた後、
ゴッホが自分の耳を切り落とし、
それを新聞紙に包んで知り合いの娼婦のところに持っていく,という
事件が起きる。
この事件を機にゴッホは狂人とされ、ゴーギャンはパリに帰ってしまう。
なぜゴッホは錯乱しゴーギャンに斬りつけ、また自分の耳をそぎおとしたのか。
私は耳という事に鍵があるのではないかと,考えている。
ゴーギャンは「我々はどこから来たのか 我々は何ものか 我々はどこへゆくのか」というように、
どちらかというと、自己内面を哲学する思考の癖がみられるが、
ゴッホの場合は、どうしたら人間を救えるか、という、
メシア救世症的癖があり、
それぞれが,次元の違う発想をしているので、噛み合うはずがない。
そしてゴーギャンの絵は若干インテリの冷静さというか,彼の頭の良さが絵の中に現れている。
それに比べてゴッホは、彼の愚直さがそのまま激しいエネルギーと色彩となり、
存在がそのまま投影されている。
もしかしたらゴーギャンは,その頭の良さから,ゴッホの愚直さに対する上から目線があったかもしれない。
なぜなら,ゴッホが耳を切るという行為の中には、
ゴーギャンの言葉が、
彼の被害妄想やコンプレックスを引き出したかもしれないからだ。
その妄想幻聴にゴッホが追い詰められたかも、しれない。
その自分を追い詰める耳を、ゴッホが錯乱して切ってしまったかもしれない。
ただ私には,圧倒的にゴッホの絵の方がおもしろい。
彼の言いたいことが、手に取るように伝わってくる。
賢治もゴッホも36歳余で命がつきるが、
私はその倍の以上も生きていながら
恥ずかしくもまだ、迷いの中にいる。
一直線に民衆を愛した賢治とゴッホ。
そこに答えがあるのかも、
しれませんね。
写真は香本博さんの作品です。私は「裸形」という名前を付けました。
ご本人は別のタイトルをつけておられたのですが、それがちょっとなまなましい言葉なので、私が自分用に
付け直しました・・・笑い!
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