ポピュリズム(大衆迎合主義)についてちょっと書きましょう。
ポピュリズム、すなわち大衆とは何か。
私ね、ずっと大衆が嫌いでした。彼らとは一線を画して生きて行きたいと思っていました。
今思うとなんと傲慢であったかと思います。
しかし、よくよく考えるとと、
まさにこの日本を支えているのは大衆であり、
彼らの存在と力なくして、この国はあり得ません。
そして私も大衆のひとりであり、
私などはむしろ彼らより劣っているのではないかと言う考えに、
たどり着きました。
オルテガによると、大衆とは気まぐれで、深く考えないで、熱狂に流される人々であり、
根無草のように
時の流れに流されて、生きてしまうと言うこともあります。
そして、歴史の中では、優れた先駆者がたちが、
大衆、つまり、考えの足りない人間に、潰されてゆくこともたくさんありました。
※ことわっておきますが、オルテガは決して大衆を否定しているのではありませんよ。
彼は、大衆社会がもたらす弊害について書いているのです。
だから私も散々考え尽くしたんですよ。
しかし、考え尽くした結果、
心あるインテリゲンチャー、つまり知識人と言われる人達は、
今の日本の大衆社会の現状に対して
絶望しているかもしれませんが。
私は
絶望してはいません。
絶望どころかある種の信頼さえしています。
少し難しく長くなりますが、私の考えた大衆論を書きます。
◯
人間と言うのは、まさに社会と言う土地に、制度に、しがみついて、必死で生きるしかない生きものです。
そのプリミティブなもの、土着的なもの、そして原始的な感情こそ、まさに、大衆が持つ人間の原点だからです。
その原点を洗っていくのが知性ですね。
知性は人間を洗練させていきます。
だから、知性は大事なのです。
しかし、知性にも落とし穴があります。
知性は、人間のあさましさや愚かさやむき出しの欲望を嫌い、
逆にその知性(理性)で、
自分を整えてしまうのですね。
つまり、社会や人間を哲学化したり、思想化して、
人間社会を観念的に捉え、
綺麗事にしてしまう危険性があります。
まー言葉を変えれば、
頭でっかちになってしまうと言う事ですかねー。
人間は本当はもっとドロドロして、言葉では割り切れない、
わけのわからないところが、
たくさんあるものなんですけど。
知性は、泥臭さを嫌い、むき出しの欲望を嫌い、あたかもそれらを、
下等のように見てしまいます。
だからともすると、その知性を持った人間は、
その理性のもとに、
本当は自分の中にある、
プリミティブな感情や、欲望や攻撃性を、
見ないふりをしたり、否定してしまうんですね。
そして、
現実にしがみついて、喰いついて、
なりふり構わない大衆のたくましさに、
嫌悪を感じてしまうのです。
つまり知識人たちは、その泥臭さに負けてしまうんですよ。
そして、ここが一番重要なことなんですが、
そういうインテリジェンスを持った人間は、
大衆の中にある言葉にならない、
あるいは知性では括りきれない、
大衆がもつ煩悩を理解できません。
と同時に、
むき出しの欲望で、時に
インテリジェンスを越えていく大衆の
たくましい精神力が見えないんです。
大衆の持つ、直裁的な彼らの、
純粋性や、ひたむきさに、
きづけないのです。
◯
ドストエフスキーは高いインテリジェンスをもち、理想に燃え、反体制的な組織に陶酔して活動し、逮捕されてしまいます。
そして、その死刑寸前のところで、皇帝の恩赦で許され、シベリアに送られていきます。
そのシベリアに行く道道で、流刑者である彼を支えたのが、
キリスト教の福祉団体の女性たちなんですね。
また、シベリアでも現地での敬虔な信仰をもつ女性たちに救われていきます。
彼女たちは高い知識や知性があるわけでもなく、
むしろ盲目的に神を信じる、おばちゃんやおばあちゃんや、
そして、
娘たちなんですね。
その彼女たちは、受刑者たちの誰も差別せずその奉仕活動で、
物資を援助したり、励ましたりしていくのです。
一方では、無知で盲目的で、愚かであるけれど、その一方では、
人間の中にある、
密かな聖なる泉のような純真さ、
素朴で、無条件な清らかさに対して、
ドストエフスキーは気がついていくんですね。
果たして、知性を持った自分にそれがあるかどうか。
理想的な思想や哲学の高いインテリジェンスを持ってる自分に、
そういう無垢な、ときには、幼稚ですらある純粋性が、
あるかどうか。
知性は、時に人間をおごり高ぶらせます。
まるでわかったかのように自分を勘違いさせます。
だからインテリは人間(大衆)を上から見てしまうんですね。
上から人間を見てしまうと、
確かに大衆は愚かしく見えるでしょう。
理性や道義的な見地から見ると、確かに大衆は、
オルテガの言うように、単純で危ういです。
ドストエフスキーは最初の頃はね、
大衆をどう捉え描こうかと模索し、
それを超えていく世界を描こうとします。
例えば「罪と罰」「白痴」なんかがそうですね。
「罪と罰」には、悪質な金貸しの老婆は殺しても良い,という頭でっかちのラスコーリニコフが出てきますね。
そして「白痴」には、天使のような無防備の「ムイシュキン侯爵」が出てきますが、
公爵は自己崩壊していきます。
しかしドストエフスキーは考え続けます。
そして、彼は最後はね「カラマーゾフの兄弟」で、
大衆を愛し、大衆のその姿に跪いて祈る姿として、
長老ゾシマとアリョーシャを描き、自分を託します。
人間の深い懊悩の世界は、
どれほど高い性や知識を持ってもなかなか見えません。
それでも、
深く自分を掘り下げて、突き止めて、突き止めていく中にハッと気づくと、
そこにまるで大衆の持つ欲望や愚かさそのものと、同質の自分がいるのです。
つまり、大衆とはあなたであり、
私であるのです。
◯
さて、皆さんは、今回の選挙がポピュリズムに走ってゆくことを心配をされているかと、思います。
確かに過去においては、ポピュリズムが、ファシズムやナチズムを引き起こしました。
現代は、ネット社会の危うさもあります。
また、怪しげな政党も出てきましたね。
そしていよいよ自民党が崩壊寸前らしいです。
ということは、日本の政治の混乱の時代が始まったという事ですね。
Facebookを見るとどうやら、この選挙が、ポピュリズムに流されないか心配しておられる方々がかなりいます。
私も少し心配してます。
しかし、この混乱は当分続くでしょう。
少なくともこの混乱が収まっていくにはあと何年かかかります。
だから今すぐ結論を出すのではなく、様子をみようと思います。
それと、同時にこれから時間をかけて、
私達は、この国の政治と経済をやり直していかなければならなくなると、思っています。
そして、その時に、いかがわしいものや、
しっかりとした理念や、ビジョンや、組織論を持たないものは、
いずれ馬脚をあらわしていくと思っています。
短期的には見えなかったものが、時間の経過とともに、
いずれ見えてきて、明らかにされていくと思います。
だからこそ、私たち選挙民は、今は彼らにあおられず、騒いだりしないで
冷静に、冷静に、しっかりと彼らを見極めて行かなければならないと思っています。
最終的には
私は日本の大衆を信頼しています。
以上です。

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