旅行で行った沼津の御用邸の奥にある<沼津市歴史民族資料館>で、
ハッと気づいたことがある。
そこに展示されていた絵を見ながら気づいたのである。
沼津は湾になっていて、以前はそこにマグロの群れを呼び込み、編みで囲いこんで漁をしていた。
丘の上にはマグロの群れを見つける見張り番がいて、
マグロの群れを見つけると、
竹で作った、まるでアルペンホルンのような道具で、
「おーい、マグロが来たぞー」と知らせた。
それを聞いた人々は海へと繰り出し、沖網の中にマグロを追い込み、
木の大槌でマグロの頭を叩いて漁をしたそうだ。
その絵を見ているうちに私の頭の中には、
激しくマグロと格闘する漁師の男どもの声や波の音や、汐風の匂いすらが生々しく以て浮かんできた。
その浮かんできた瞬間に、ハッと私はきづいたのである。
何に?
人間とはその人間力がすごいのであるということを。
船を出し、マグロを網で囲いこみ、その後マグロの頭を叩いて漁をする人間(男)の、その躍動的生命力が、
凄い!
叩いて気絶したマグロを解体する女達のその仕事力が凄い。
それはA Iなど遠く及ばない、
人間の持つダイナミズムの凄さである。
昨日偶然に養老猛先生と茂木健一郎氏がタクシーの中で話しているYouTubeをみた。
養老先生は、コンピュータやA Iなどが弾き出す数値やデータなどは、あくまでも人間の表面しか語っておらず、
人間はそういう科学的数値やデータの埒外にあり、自然もそうだと言っておられた。
つまり人間が生きる,ということは、そんなものでは測り得ないアルファの世界なのである。
実は私も特に最近は、A Iが弾き出す数値やデータと、
人間の実相的現実は違う、という思いが強くなっている。
十数年前A Iが現れ出した頃私は、直観的にこれは人間の危機だと思った。
人間は体をつかいながら知能が発達する。
特に指や手を使うことや、身体全身がセンサーになり、それが脳情報になる。
つまり人間は脳と身体を生き、さらに身体全身を使って仕事をすればこそ、
人間として成立しているのであり、
それをA Iやロボットに代替させることは、人間の劣化につながる、と
思ったからである。
それでとにかく<人間が働いている>ところを、
それも自然と供に働いているところを、
今のうちに撮っておかねばという、強い焦燥感に駆られて映画にした。
今、人間社会は見事に石油社会になってしまった。
そして、その石油がアメリカ、イラン戦争で、手に入らなくなるかもしれない。
映画「どこかに美しい村はないか」には
そういう石油文明や高度テクノロジーではない、
まさに人間と自然とが協働する世界が描かれている。
私はできたら機を見て能勢監督と相談し、この映画を
YouTubeで公開したいと考えている。
みんなが、人間の人間力に気づき、さらに、
人間が生きることの
本質的原理がどこにあるか、
それは決して行き過ぎだA Iテクノロジー社会ではない、ということに気づき始めた時に、
この映画を贈ろうと、
考えている。
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