久しぶりに松岡正剛著の「外は良寛」を読み直している。
もう最初の10ページめから良寛の書の間合いの話しが出てくる。
間というのは、私達の身体の感覚の下意識のなかで,
その人なりに組織されており、かなり微妙な話しである。
そこで思いだしたのは、ある青年が、大枚ははたいてある音楽会に誘ってくれたのだが、
私には、余りに通俗すぎて耐えられず、途中退席したことだ。
4歳になる前から、母親からピアノの手ほどきを受けた私の耳は、
かなり微細に音や間を聞き分けてしまう。
だから、よほどの演奏でないと身体が反応し、胸がザワザワして落ち着かない。
それはNHKのドキュメンタリーの為に作曲された音楽であったが、
耐えられなかった。
文章でも同じで、
ある人から、半ば強引に、読んで欲しいと押し付けられた本の内容も文も、
余りにも私とは齟齬を起こし、本当に困ったが、
感想を言うのを、何とかやりすごしてよけた…苦笑!
微細に研ぎ澄まされた世界に、私は美しさを感じる。
ただ,およそ一般的ではないその感覚と感性は、私の財産でもある。
「外は良寛」12ページめ、松岡正剛氏は、
良寛の色彩はモノトーンであり、音に譬えるなら「最微弱音」だと書いておられる。
そして良寛の書の間の瞬間の距離は、
「光と物質(紙)がぎりぎりの関係を保っていられるような、そんな距離」だとも、書いている。
確かにモノトーンの良寛の色彩は、
一切の構えを廃し、
まるで筆に運ばれたように自我が
消えている。
そして伸びやかな一筋の線になった書には、
私自身も一緒に遊覧してゆく喜びが
ある。
多分それは、私が女だからかも、しれない。
まことに、音も書も文も、更には絵画彫刻も、
その微かな間合いから聞こえてくる、そこに、
恥ずかしながら,私の小さな生が息吹く。
それは美しく、
他を介在させない私だけの官能の世界であります。
遠く,遠くから、微かに聞こえてくる葬列の太鼓のように、
私の生と死が、
パラレルに魂化していくその世界だけが、
唯一私の財産です。
だからこそ、私にとっては、かけがえがなく、
どうしても,譲れないのです。

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