作家にとって大事なのはその芯が、シャキッと立っていることです。
伝えたいこと、伝えねばならないことが作家の胸のうちにしっかりと、
それは完全でなく、
完成されたものでなくて良いです。
ただその芽は、作家にとって正しく、美しいものであらねばならないと、
私は考えています。
その意味で、おそらく芥川龍之介の胸の内には、
ある構想(芽)があったかか、と思います。
当時の誰も書かなかった、或いは描けなかった、
人の現象を網羅した小説ではなかったかと思います。
古今東西の本を読み尽くした芥川の頭の中に広がる、
普遍的な人間像と、人間現象を
書きたかったのではないか、と、
私は推察します。
人間という現象は、知者であり愚者であり、痴者である。
享楽であり善であり悪であり、偽善者であり、
正直であり、嘘つきでもある。
そう言う人間という生物の現象すべてを網羅し
承知し、
胸に収めた上で、
乞食のように、狂人のように、
また、限りない慈者のように、
大衆に向き合い、辻説法にたつ、
神ではないジャーナリストであるキリストに同化し、
※「西方の人」ではキリストをジャーナリストと書いています。
その上で覚醒した、ただの人を、
書きたかったのかも知れません。
それが彼が憧れた神ではない、
人間キリスト、
すなわち
「西方の人」ではなかったかと思います。
ただこの作品はまだ、デッサンレベルです。
このデッサンを下敷きに
それ迄の日本の作家も、
世界の作家も、
誰も書き得なかった小説を書くことを
試みたのではないかと
思います。
龍之介初期の作品「羅生門」には
真剣のような殺気があり、
あの一作で、
一気に他の凡庸な者たちを退けた気がします。
しかし、そのあと青年芥川に、
さまざまな迷いがおき、野心も起きたのではないか?
知りすぎて、見えすぎる非凡であることから迷い苦しみ
もうそこから降りて
のただの一介の人になるべくの
諦念として
「芋粥」「鼻」を書いたが、
この二作は、美しくない。
更に「杜子春」「蜘蛛の糸」に至っては、
ひたすら凡庸なる世界へと降りようとする芥川がいる。
これらの作品も殺気が欠けていて、
私は面白くない。
しかし最後の作品「歯車」は、
再び芥川の殺気と狂気がキラキラと
輝き、
美しい。
安易な感傷などは一切なく、
厳しく、メタリックで、
悲しい。
それは、
無機的な眼差しで、
人間の現象を眺めながらも、
そこから遠く、孤高を行く、
一人の青年の独白であった。
惜しいね〜。
非凡ゆえに、凡庸世界の現実、
すなわち人間の現象が
丸ごと見えてしまう。
その見えてしまうものをどう扱ったらいいのか、
わからない。
芥川がその答えを出せるには、
あまりにも若すぎました。
しかし、
もし漱石が生きていたら、
死のうとする芥川青年に、
「それでも生きておいでなさい。
そのうち何か、
きっと見えてくるから」
と言ったと思います。
その漱石も逝き、
誰もいなかったんだね、
お わ り。

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