漱石も子規も、その2,ドストエフスキーの愛の世界へ

自分の愛情が何を対象とし

何処へむかっているか。

この場合の愛情とは

自分の中にささやかに起きてくる

人間としての温度であり、

男女や親子の愛ではなく

自己の心を満たそうとする欲の愛情でもなく、

他者や世界に執着する愛情でもなく

生きるエネルギーの根源にある

自分と他者及び世界とを繋ぐ、

つまり

人間が他者とともに生きなければならないその

原理的な絆としての

人間愛でのこととして、

漱石やドストエフスキーは

何を考えたか。

ドストエフスキーの生きた時代(19世紀)は

ヨーロッパ産業革命の進行および資本主義の誕生、

ロシアの農奴解放やマルクス主義の台頭する中

貴族封建階級社会が崩壊し始め市民が台頭し

さらに宗教の神秘性の欺瞞があばかれ

神の死が認知される中で、

虚無が蔓延していった時代です。

つまりあらゆる価値のパラダイムシフトが起きてくるという現象の中であると

いうことにおいて、

この時代は今の時代によく似ています。

それまであった価値や思想が

どんどん崩壊していく時代の中で、

ドストエフスキーは

何をよりどころにして生きたらいいのかを

問い続けた。

はたして神は存在するのか否か。

悪とはなにか、

では

善とはなにか

そして人間の人間たるものはなにか。

複雑で厄介で難しい人間のこじれて縺れたそれらを

ドストエフスキーが解いていきます。

しかし

解いても、といても、答えは見つからない。

つまりどこにも人間とはなにかがの答えが

見つからないのです。

見つからないということは

人間は

善も悪も,聖も邪もそして高邁なことも

愚かしいこともすべてを丸ごと

背負って生きるしかない。

そういう宿命や存在の矛盾の非合理を背負って生きるしかない人間に対して

どうむきあうか。

自分にどうむきあうか。

他者とどう向き合うか。

答えは保留されたままです。

小説「草枕」の冒頭で

『智に働けば角が立つ。

情に棹させば流される。

意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい』

と書き、思案している漱石がいます。

「草枕」を書いた頃の漱石はまだまだ

若いです。そしてその結論を出せずに小説の中でも

逡巡しています。

矛盾と非合理を抱えてしか生きることができない人間を

『百姓も町人も村役場の役人も爺さんも婆さんも、

悉く自然の中の点景色』と書いた漱石は

画中点景の一つとして人間を見ようと試みます。

つまり人漱石は

人間と人間社会を、

天の目で、俯瞰的にみようとします。

そこには

人間が、

それぞれの自我と感情をもって存在しているにもかかわらず、

その細部や卑小さにいちいち反応するのではなく、

それらを丸ごと抱えた一つの点として、

むしろ

丸ごと抱え、存在が完結されている点として

受け入れようとします。

故に、その点としての目線は、

どの人間とも、等距離にあろうとする漱石の目線であり、

いいやつも嫌なやつも

愚かなやつも賢いやつもが

その等距離をもって丸ごと肯定されています。

そして人間は

そんな自分に振り回されて生きるのです。

自分に振り回されて

どう生きたらいいかわからない。

それが「草枕」では常軌を逸していると

村人から見られている女性のお那美さんです。

彼女の行動はいちいち芝居がかっており

そこには彼女の虚構世界があります。

まだまだ仮面の中に

自分の本心やあふれ出る感情を抑圧しています。

つまり

自分の中に湧きおこってくる

様々な感情や思いを

どのように受け止め、舵をとったらいいのか

分からない人間なのです。

そういう人間の混乱と迷いの中

お那美さんの中に自然に湧き出てきた感情があります。

人間として最も自然で素直な感情が

彼女の表情の中に湧き出たとき

それだよ!と、漱石は言います。

それは自分のかつての夫であった人間との別れです。

もう二度と会えないかもしれない人間、

そして戦場で死ぬかもしれない人間を見送るときに

彼女の内側から溢れてきた

憐れみの感情です。

それこそは小説の中での画家(漱石の分身)が見たかった

人間としての素直な、素直な感情と表情です。

まだまだ若い漱石は、

ここまでがやっとだったかもしれませんね。

しかしその後も漱石は考え続けては小説を書いていきます。

人間も社会も自分も他人も

理屈で見てもダメ。

感情でみたらさらにダメ。

そういうダメだらけの人間のダメもふくめて

一緒に生きるとはどういうことであるのか。

しかし受け入れるためには

自分の立ち位置や

距離が必要であること。

その立ち位置をどこに置くかを

ドストエフスキーは高邁なる理念で受け入れようと

しました。

彼が最晩年に書き、その数か月後に亡くなった作品

「カラマーゾフの兄弟」でのたった一行に

私は彼の遺言を見ます。

それは長老ゾシマがカラマーゾフの末弟アリョーシャに

言い残した

「神の子である民衆を愛してください。」という遺言です。

一方「白痴」という小説の中では、

善良で愛のひとである主人公のムイシュキン公爵は、

最後には自己崩壊してしまいます。

しかしそれでもドストエフスキーは

さらに問い続けます。

善とはなにか、悪とはなにか、愛とはなか。

光と闇、そして善と悪の彼岸、つまり

その瀬戸際を生きる人間と厄介で煩わし社会の中を

何を手掛かりに、指標にして生きればいいのか。

その答えである愛を、ドストエフスキーは、

アリョーシャに託しました。

愚かで矛盾だらけで手前勝手で

ダメな人間たち

でも、それでも神が愛した民衆であること。

人間を自分の自我の主観と感情で

裁断しないこと。

人間もひとつの自然の中の点景として

その総体をみること。

さらに人間が不可避的に作り出す幻想から

覚めること。

諦めることは

失うことでも

絶望することでもない

諦めることを楽しむこと。

漱石、子規、ドストエフスキー、さらに

次回書きたいとおもっている、

道元も親鸞も

人間のことを考え続けた先人たちが教えてくれる中で

深くこうべを垂れ

耳を傾けて

私も生きよう!

やっとすこし

私自身の立ち位置がみえてきたところです。

そしてホッと安心しました。

         つづく!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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