序 <知>が深まれば<孤>も深まる。
若い友人である亀君が大金をはたいて音楽会に招待してくれた。
それはNHKの某番組で流された映像のバックミュージックを
映像を流しながら演奏するというコンサートということだった。
亀君からこの音楽会を誘われた時、映像と音楽ということで
ろくすっぽ内容を確かめもせず、OKの返事を出してしまった私は
てっきりドキュメンタリー映画の、映像と音楽の秀作作品を抜粋してみるものだと思いこんでいた。
しかしコンサートが始まってびっくりした。
それはステージのオーケストラの奥のスクリーンに歴史的な貴重なドキュメンタリーの映像が映し出される一方でもう、
どんぶり飯をひっくり返したように音楽が大音響で演奏されだしたからだ。
何これ、という間にその音楽はまるで、その映像を説明するかのような迫力で演奏を続けた。
そこで初めて私はこのコンサートはどうやら映像が主役ではなく、
映像に音楽をつけた作曲家のための示威コンサートだということが分かってきた。
残念なことに、ここでは音楽が主になり、映像が従になっている。
例えば、太平洋戦争で、日本本土に米軍機が、雨の様に爆弾を落とす映像をバックに、
音楽がまるで悲しみを煽るような大爆音で、演奏されるそれはまさに
音楽の為の映像になっているからだ。
これは本末転倒であり、もし、音楽を聞かせてたいならば、
本来なら、映像は映すべきではない。
映像=ドキュメンタリーとは、映像を通してそれぞれの観客自身に湧きおこる、
その独自の感性、記憶、思考において●追体験され考察されるものが
その人間の内部で完成されるものであるからだ。
そこに必要以上に音楽だけが強調されることは、個人の自我、
つまりは作曲家の自己顕示でしかなくなる。
そういう意味においてはせっかくの亀君の招待であり、
さらに高額なチケットでもあり亀君には大変申し訳ないのであるが、
この貴重な映像を音楽で視覚的な集中を妨げられながら
むなしく映像を見ているより外なかった。そして疲れた。
しかしコンサートの最後は観客の大喝采の拍手で終わった。
恐らく観客は、映像の中にある
●本来向き合わねばならない息苦しさをこの感情的な音楽で、
カタルシスしてしまったと思う。
つまり、映像は死んでしまった。
それはそれで仕方のないことだと思いながら帰途についた。
帰途につきながらこのところブログに書いている漱石のことを思いだした。漱
石もいつもこういう風に彼の知的世界が大衆に消費されていくことに対する焦燥に煩わされたのではないかと思う。
おそらく漱石もあきらめたのだね~。
この音楽がいかにも作曲家の示威行為であることなど分かる人の方が少ないだろう、
しかし、それはそれでいいとするしかない.
つまり<知>が深まれば深まるほど<孤>も深まるしかない。
理解されないことを嘆いても、仕方がないのである。
<知>の深化は、<孤>を引き受けなければならない。
そしてそれをどう乗り越えるかを、漱石は考えつくしたと思う。
そして漱石の親友であった正岡子規も、その寝たきりの病床で考えたと思う。
コンサートから帰ってきて、夜、
正岡子規の「病床六尺」のいつも読み返すところを開けて読み返した。
それは自分の死期を目の前に多くのことをあきらめざるを得なかった子規が到達した覚醒でもある。
そこには漱石の覚醒と相通じる世界がある。
覚醒とはあきらめの先に開けてくる、
別の感動の世界でもあるそのことを書いてみようと思う。

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田下啓子
23時間前 · YouTube · プライバシー設定: 公開

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