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◆<田下啓子痛快エッセイ>もう二度と生まれてきたくないな~その9,いかにあきらめて、いかに超えるか!

ものごとはすべからく限界があると

私は考えている。

人間もその感情も愛情もそして能力も技能もなにもかも

すべて限界がある。

その限界をどうするかについは、

1限界を認め、あきらめるか捨てるか

2限界にチャレンジして、超えていく、の

二つがあり、

人生は、この二刀流をいかに使いわけるか、だと

私は考えている。

人によってはあきらめる一辺倒の人もおり、

情けないだけど、それもやり遂げたら名人になるかもしれない。

反対にチャレンジばかりする人はもしかしたら

突っ込みすぎて自爆するかもしれないね…笑い!

私としては、この二つの間で、決断も決心もできず

ぐずぐずと漫然と生きるのだけは避けたい。

人間が自分の遺伝情報というフォーマットを変えられるとしたら、

それは自分を変えるという決断と決心(決意)と覚悟が必要だと、

私は考えている。

この決断と覚悟がない人は、自分の遺伝子というチョー厄介なものに

一生支配される。

良い遺伝子はそのままでいいが、厄介な遺伝子には

人生を振り回される。

私の場合は、自分の遺伝子の中にあった他人への期待と幻想、依存、

そして自分を保守することを,徹頭徹尾あきらめた。

厄介な感情も捨てられるだけ捨てた。

反対にいかに人間を見聞き、そして知り探訪するかということと

もう一つ、

自分ができうる限り成熟するという事については

限りなく挑戦することにした。

成熟という自分の地平をめざして、

自分のエゴや執着やそして、社会の中で、

何をどのように選択し、決断、行動するかを考えながら

生きている。

その時いつか到達したいと思い浮かぶのは、

雲一つない真っ青な空であり、そこには

賢治辞世のあの句

「み祭三日 そらはれわたる」がある。

それをいつも夢見ている。

賢治も最後はすっかりあきらめたと思う。

しかしその先には、菩薩の如く端正な自分を目指して正座し、

もう少なくなった残りの<生>を生きたと思う。

私は菩薩などにはなりたくないし、正座もしたくない。しかし

ただ、真っ青な空は、見渡したい。

そこをめざしてね、

生きたいです。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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