さて、これから大切なことを書かねばなりません。
「銀河鉄道の夜」二次稿、三次稿にあった、それまでのいかにも
賢治らしいメッセージが、四次稿では全部消されています。
たとえば、明らかに相対性理論を意識したメッセージ
「「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。
お菓子や三角標も、みんないろいろに組あげられたエネルギーが、
またいろいろに組み上げられてできてゐる。
だから規則さへそうならば、ひかりが
お菓子になることもあるのだ、
ただおまへは今までそんな規則の
ところに居なかっただけだ。
ここらはまるで約束がちがうからな」
や、
「もしおまえが本当に勉強して実験でちゃんと本当の考えと、
うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえ決まれば、
もう信仰も化学と同じようになる。」
や
「「おまえは夢の中で決心したとおり、まっすぐに進んで行くがいい。
そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕、きっとまっすぐに進みます。きっとほんとうの幸福を求めます。」
ジョバンニは力強く言いました。
「ああ、ではさようなら。これはさっきの切符です。」
などなど、その他にもたくさんの、
●いわゆる賢治らしいメッセージが
全部そぎ落とされてしまっているのです。
こういう希望に燃えたラストの代わりに、
カンパネルラの死と、彼のお父さんとジョバンニのやり取りが
つけ加えられました。
それはなぜか・・・・。
私はこう分析します。
おそらく賢治はもう、
そういうことを書く気になれなかった。
昭和6年、賢治の理想、希望、そして切なる思いが、
すべてガラガラと瓦解していきました。
「羅須地人協会」を立ち上げてから、次々と賢治を追い詰めた、
現実の壁の高さ、大きさ、そして強固さの前に叩きのめされた賢治が
そうは簡単に、そうは安易に、そしてそうは楽天的に
書けるはずがないのです。
自分は世界の知識にたけ、
天文学や地学や数学やそして物理世界も文学、芸術にも
通じている。しかしそれは、
現実の前では空回りし、実効性を持たず、
さらに言葉は宙を舞うばかりであった。
だからこそ、冒頭の「午後の授業」では、
ジョバンニもカンパネルラも、
星座の知識をしっていても、
もしかしたら相対性理論すらも知っていても
口を閉じ、
わかっていても、言わないという判断と態度を
している。
更に第四次稿の最後は、
川におちた友達ザネリを救おうとして水死したカンパネルラを
捜索する中、
本当はもうカンパネルラは死んだということを知っているにもかかわらず、
ジョバンニは、それをカンパネルラのお父さんに言いません。
そこには、何だかもう軽率に口をきけなくなった(書けなくなった)賢治、
口を閉じ、
その失敗と挫折の重さの桎梏から抜け出られていない賢治の心境と
深い絶望を私は感じてしまうのですが。
そしてこのラストには、もう一つのエピソードがあります。
それは彼の盛岡高等農林時代の友人、河本義行が
川でおぼれそうになった同僚を救おうとして、
水死したという知らせです。
ただこれは、賢治が亡くなる二ヶ月前にことであり、
それを知った賢治が「銀河鉄道の夜」に取り入れたかどうかは不明です。
河本義行はあの高等農林で賢治たちが出した同人誌「アゼリア」の
大事な仲間であり、
その年の年賀状には
「ご無沙汰いたしました。この数年意気地なく疾んでばかり居ました。
お作拝見したう存じます」昭和八年一月一日
という文が添えられている。
ただ私は、
このラストはもしかたら河本への賢治の追悼かもしれないとも
思います。
そしてこの河本の犠牲的な死も含め、ここから、賢治の「次」が
始まろうと仕手いたのではないか、と思うのです。
では賢治の「次」とは何か、を
次回書きます。


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