さて、ここからが宮澤賢治という人の素晴らしさなんですよ。
この事を是非お伝えしておかなければね。
河本義行の死を含めてというか、それを超えて、
賢治は今までを総総括したうえでの、
次の人生をはじめるつもりであったと
思います。
それが 「グスコーブドリ」の世界です。
今度こそ、ほんとうに
皆の幸せのために自分を生きようとしていたのだと
思いますよ。
そしてね、
もし、賢治が凡庸であったなら、あの挫折と自己瓦解のあとですから、
もしかしたら作家や文学者にありがちなクールなニヒリストになったり、
虚無や人間不信や、大衆に対する絶望に陥ったかもしれません。
ところが賢治はそうではありませんでした。
ニヒルになったり、ひにくれたりしないのです。
なぜなら賢治こそは「知性」の人であったからです。
「知性」とはたくさんの知識を知ることで、
視野を広め、考察を重ねる中、
そこから精神の崇高さや、こころざしの高踏さや
大きな「人間愛」をもつことでも、アリマス!
賢治のこころにある透明度や真摯なものがそうはならず、
逆に、おそらく賢治は気づいたのです。
自分は農民やその社会を救おうとしたが、それは
まさに自分を高みに置いてのことであり、
農民や社会に対する上から目線の改革であったことを。
深層心理的にいいますと
他者や社会を救いたがる人間は、自分では気づかないが、
その深層心理に、心理的な抑圧やストレスや無力感を抱えている人間が
他者や社会にそれを投影し、
その代償行為として、メシア症候群、
いわゆる<人を救いたい症候群>に陥るのです。
おそらく賢治も、その深層心理には父親に抑え込まれた抑圧や、
自分を思うように発揮できないストレス、
さらに自分には生活知が欠落していること。
例えばお金を稼ぐ能力に欠けるという無力感などがあり、
それが彼の観念的な世界知との混同のなかで、
トルストイを真似、改革者かつ、
菩薩的な人間になろうとしたのではないかと、思います。
ただ、それはある種の短絡でもあり、ことごとく失敗しました。
そしてやっと気づいたのは、
そういう上から目線ではなく
現実を厳しく凝視する自分になること。
科学者としての冷静で厳しい現実認識の中に生きること。
これはまさしくカンパネルラの父親のあの冷静さに投影されていますし、
もしかしたら法華経の「常不軽菩薩」のように、
上から目線ではなく
どんな人よりも自分を下位におき、そこで生き、
人々の役に立つ人間になろうとしたのではないかと
私は思います。
深い傷から自分を立て直しながら、
そういう決心をしていたのではないか、と思えるのですよ。
傲慢に社会を変えるとか、民衆を啓蒙するとかではなく、
自分を必要としてくれる人々に寄り添い、
ささやかに、謙虚に、自分が得た科学(化学)の知識を役立てる。
そういう風に大きく舵を切ろうとしたように、私は
思います。
そしてもう一つ賢治の大きな失敗がありますね。
それは、保坂嘉内との決別の原因になった
「国柱会」への●熱狂です。
親友の嘉内に法華経「国柱会」への勧誘を断られた時、
賢治はそのアイデンティティーが崩れたと思います。
だからこそ、反対に熱烈に嘉内を国柱会へと
連れ込もうとしたのです。
また、一方でふる里韮崎で農業青年を育成するという嘉内の姿、
そしてあの岩手山での熱い二人の誓いのためにも
賢治は「羅須地人協会」を起こし、ほんものの百姓になろう、いや、
ならねばならない、といういわば強迫的思い込みへと
追い込まれたのではないかと思います。
しかしそれもみんな砂上の楼閣のごとく、
賢治の言葉を借りれば、蜃気楼のように崩壊していきました。
そして本当に折れ、身も心も疲れ果てて病気になり、
賢治の言葉、
「今ではもうどこへも顔を出すわけにはいかず殆ど
社会から葬られた形です。
それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけとうと
毎日やっきになっている所で我ながら浅間しい姿です。」
の自分が、それでも自分が立てた「立願」を失わずに
これからどうやって生きてゆくかというときに
もしかしたら「常不軽菩薩」の姿が浮かんだのかもしれません。
つまり賢治はこの病を直し、次は本当に
自分のコンプレックスの裏返した上から目線でもない
ミザントロピーでもない、
農民の、そしてみんなのために、
ほんとうに、自分を投げだした生き方をしようとしたのではないか、と
思います。
それは河本義行が同僚を救うために死んだように、
純粋な心と謙虚な行為を持って人々のために生きようとしたのだと
思いますよ。
ところがもう賢治の命のエネルギーはそうは多くはありませんでした。
次回はそのことを書きます。


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