MENU

◆感覚から素粒子へ・・・。

感覚が意識のフレームを越えて、

つまり意識の既成観念の秩序を飛び出し、

感覚そのものが、言葉へと変換さないまま、感覚として自立し、

感覚から感覚へと増幅されたり、細分化されたりして直観へと連鎖、連結,移譲され、

どんどん既存のソース源から解放されて、

あちこちに、自分の感覚が浮遊しそれはまるで

空気のようにあちこちに偏在し、

これまでとは全く別の感覚世界を構築するかもしれない。

つまり今まで自分が思い込んでいた感覚が、

その思い込みからはずれて別のなにかなるわけだから

今までの自分にこだわったり、自分にしがみついたり、

自己主張したりするなんてがホントにつまんないことになる。

原子の感覚として、世界の普遍性の空間中でダンシングする、ってわけだね~。

自分の意識をとじることなく解放し、

感覚が他者の感覚の呼応し、往来し、

或いは人間以外のものとも往来、交流し、

最終的には、感覚の粒子があちこちで、連鎖、連結、或いは

解体、結晶、或いは放出されて、世界のあちこちに飛びまわる。

あゝ~っ、これって素粒子の世界だよ!

もしかしたら、未来はそこまで、行くってことかぁ~??

印象派の画家たちも、音楽家たちもまさに、自分達の古い感覚を手放し、

あたらしい感覚と感性を手繰りながら、それをやり遂げていった。

光の粒子を絵に、電子の粒子を音やメロディーしたのだから、

すごいね!!

私達もがんじがらめになっている既成の感覚が、

やがては粒子に解体されて、

天井(宇宙)に行くのかな、あの銀河鉄道に乗ってサ!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

コメント

コメントする

目次