では、賢治、いこかー!
宮沢賢治も余りにも前衛的でしたね!
当時は誰も理解できませんでした。
現代においても一般的には、
一部の先鋭的科学者や知識者でない限り、
人間が現象であるということは、
なかなかわかりづらいと思います。
その小難しいこの記事を
読んでいただけて光栄です。
さて、
誰からも理解されないのは賢治だけではなく漱石も龍之介も同じです。
そして龍之介が果たして、
人間は現象であると考えていたか、或いは直感していたかは、
甚だ不明です。
ただ、賢治と龍之介とは類似点があり、それはふたりともが
短編作家であることです。
それに比べて漱石は長編作家ですので、群をぬいて頭がすごい!
デティールを細かく書きつつ読者を鳥瞰的なところまで引っ張ってゆくという、円熟力を持っています。
それに比べると龍之介の賢治も、
まだまだ子供レベルかな⁈…苦笑!
賢治も人間が現象であることを理解していた作家です。
ここがわかると、俄然賢治が身近になります。
賢治が人間は現象であると、
ことさら意識して書いたわけではないと、思いますが、
しかし理知が極まってくると、
脳の中で自然に言葉が現象化するのではないかと考えます。
そして賢治の作品は、
現象を描いているがゆえの躍動感があります。
まただからこそ、
いわゆる説明やストーリーがなくても、
私達もそれを直感的に感じて、
元気や勇気をもらえるのです。
「春と修羅」は勿論のこと、
例えば詩「小岩井農場」なども、
賢治が、次々におきる自分の現象を綴っているように思います。
凡庸になればなるほど説明的になり、筋を作ろうとしますが、
筋を追わず、
映像を綴っていると考えると、
わかりやすいかもしれませんね。
彼のオノマトペもそう考えると、
いっきに私達の感覚も、
その現象描写に対して共感するでしよ!
難解といわれている童話の
「ガドルフの百合」なども、
賢治の頭の中に現れている現象だとわかると、
筋を追うのではなく、場面を追えば、
あっそうかと、わかってきます。
賢治の頭の中でも、現象化が著しい時と、そうでない普通の時があり、
頭の中の回転率がや心理状態の違いで、
ノーマルの時と、ジャンピングしている時という風に、
作用していたのではないかと思います。
だから他人からみると辻褄が合わず飛躍して見えるのですが、
このジャンピングこそ、天才の証でもあるのです。
芥川も賢治も頭が良すぎて、
物事や事象が完結して見える為、
そのデティールを事細かく説明するのが苦手なように思います。
故に彼らの短編は、
端的に極められた言葉がビシッと決まり、
小気味良い作品にはなりますが、
長編はなかなか書けないのです。
才能が尖りすぎているせいですね。
話を人間の現象論にもどすと、
賢治の「銀河鉄道の夜」では、
賢治は人間の魂を電気現象として捉えていたのではないかと思います。
銀河を走る機関車の中と外で、賢治の幻想が点いたり消えたりと、
幻燈のように映し出されていきます。
芥川もその脳の中には、
彼自身の幻灯が点滅していたように思います。
「河童」などを読むとやはり芥川も賢治と同じように、
彼の理想郷を求めています。
二人ともがあまりに見えすぎたと
私は思います。
そして賢治も、
もしかしたら、銀河鉄道に乗ったまま、
あの世に行こうとしたかもしれませんよ。
しかし賢治は、
絶望しながらも銀河鉄道から降り、
この世に帰ってきます。
反対に芥川は、
もう伝えることをやめて、
自分を打ち切ってしまいました。
残念です。
なぜ賢治が帰って来たかは、拙著「拝啓宮沢賢治さま」に書いてあります。
そしてもう一つこのふたりには類似点があります。
しかしその類似点からふたりはそれぞれに別れていきます。
それは次回に。
つづく。

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