「どうする家康」は見ていないんだけど…笑!
新聞で三谷幸喜さんが,司馬遼太郎の「関ヶ原」がメッチャ面白い、いつかやってみたいと、書いておられたので、
インフルエンザで熱ウンウンの身体がキリキリ痛むなか、頑張って読みおわりました。
まだ熱が下がらないのですが、
それよりも何よりも、
家康という人の凄いこと。
なるほど,この人にシステム化されれば江戸が300年平和で続くはずだと、思いましたねー。
室町時代の末から武士社会がどんどん崩れだします。
そして信長が現れると、その階級制がいっきに壊れ、さらに秀吉の時代には、秀吉を始め、本来なら武士ではない人間がパワー闘争で成り上がったり、権力を持ったりする、まさにめちゃくちゃな時代になってしまいます。
そんな中家康は、三河の伝統的武士団の5代目当主としてうまれます。
家康も戦国の波の中で8歳の時に今川義元に人質に取られますが、その護送途中で小田に攫われ,小田の人質になり、その後,今川にとりもどされました。
小田の人質中に信長に会ったかどうかは不明です。
今川に人質として囚われていましたが,その間に父親が亡くなり、幼いながら城主をなった家康は、破格の扱いを受け、
領主としての教育を臨済寺の雪斎から学びました。
この雪斎らから学んだ教養が、家康を大変な読書家にしたのが
信長や秀吉とは決定的にちがうところであり、
臨済の教えだけでなく、四書五経なども学んだとおもわれます。
8歳から人質として翻弄され、苦労し続けた事が、
我慢強く,思慮深く、そして慎重にも慎重を重ねて行動する家康の行動規範になったと思います。
それは自分から機を作るのではなく、
じっと機が熟するのを待ち続ける家康の人生戦略になったと思います。
そしてその家康の周囲には,伝統的武士集団の三河武士の家来達がいました。
これも大きな成功ファクターだったと思います。
関ヶ原の戦いは、最初から豊臣を根絶やしにする為に仕組んだ罠に、
石田三成が引っ掛かった気がします。
おそらく秀吉が死んだ瞬間から、豊臣を完膚なきまでに潰しつくす大戦略を考えていたのではないでしょうか。
次回はそれを書きます。
つづく。

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