はっきり言って、日本人がノーベル文学賞を貰うことなどあり得ない、と私は思っている。
確かに大江さんとか川端康成は貰ったが。
なぜなら、本当に素晴らしい日本語の文章は、
外国人にはわかり得ないと、最近とみに私は確信している。
文章もさることながら、文体の流麗さや、
文体と行間の奥に潜む日本独特の官能世界や、その幽玄さを、
外国人がわかるはずがないからである。
まードナルドキーン先生クラスなら、わかるかもしれませんが。
日本の素晴らしい文章や凄みのある文章になればなるほど、
ロジックから離れ、
幽玄のまぼろしの中に沈み込んでいく。
そこから先は、手探りの官能で掴んいくしかない世界が現れる。
それは「能」の世界のように現世と過去が錯綜し、
主体と客体とが時空を超えて、
現れては消えていくからである。
「能」には絢爛な美しさと、
凛と張りつめた「武」の緊張の世界があり、
その儚さやものの哀れなどを、
果たして西洋人がわかるかどうかは、
甚だ疑問に思う。
それは同様に「宮廷雅楽」や、
民俗的「神楽」にもある、
日本人の「美と躍動」の世界だからね。
そして本当に才能がある人間の文章は、
天から降ってくるものであり、
頭でこねくるロジックなどを、
遥かに凌駕してしまうからである。
それはカンといえばピンと伝わる空気の振動や湿度を
目には見えない感覚で掴んでいく世界である。
日本人的感性は、
読み手の感性が、
日本的草木の官能の美の世界を掴んでいない限り、
分かり得ない。
この能力はほんとに不思議な能力で、
句読点のない文語体のなかに流れる
流麗な形容の美しさを体得していないものには、
分かり得ない。
◯
今回,縁があり小島信夫の森敦作「月山」の評論を読んでびっくりした。
評論をした小島信夫氏の文体が素晴らしかったからである。
作家の頭の中に広がるイメージを、
言葉に降ろすことがいかに至難なことであるかを、書いている。
これは確かに普通には何がなんだからわからないだろうが、
しかし常に頭の中のイメージを言葉に降ろすことと格闘している人間には、
手に取るようにわかる文である。
私は時々、物書きをナメンなよ、と凄みたくなる。
文章を書くことがいかに辛苦であるかを、
ナメんなよ、と思うのである。
残念ながら近年日本人の頭は益々単純化しており、
文章の奥に潜む情感や、
行間の空白の中にある余韻がを理解できなくなっている。
文章というものが、文化ではなく商業化された結果、
分かりやすいものばかりが蔓延ってしまった。
本当に残念である。
◯
表面の言葉だけでは捉えきれない、
時空を超えて感覚と感性の躍る世界。
指先から水が零れ落ちてゆくような官能の世界。
それは見事に、
尾崎放哉や種田山頭火の中に結実していった、
優しい日本人の世界であった。
山頭火はともかく、
放哉が優しいか、というと、
実は、
優しいのですよ!

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