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嬉しいことだらけ3、あまりにも深い、ドストエフスキー文学の女性達!

ドストエフスキーの作品に出てくる女たちについては、まず「罪と罰」に出てくる聖女のようなソーニャが代表的です。

しかし、私はドストエフスキーのペンが一番踊っていたのは、

ソーニャの父親、九等書記官の退職官吏マルメラードフの後妻、

カテリーナの描写のように思います。

ソーニャが売春をして家族を支えています。

このソーニャの存在によって「罪と罰」の主人公ラスコリーニコフは、

だんだん自分の罪を受け入れていきます。

いかにも痛々しく、かぼそい体で、周囲を支え寄り添うソーニャは、

醜悪で困難な現実をすべて受け入れていきます。

そこにこそソーニャの

強さがあるのですが、そのソーニャの対極にいるのが継母のカテリーナです。

どうしようもなく敗残し堕ちてゆくマルメラードフの妻としてのカテリーナは、

現実を受け入れることができない女性です。

陰の主役カテリーナは、

貴族の出であり、大佐の娘であった自分のプライドを捨てきれず、

そのエリート意識で他の女性たちに対抗し、

むき出しの敵意をもやし、威嚇します。

そして、貧困の苦労のなかで結核になりながら、精神を病んでいきます。

ソーニャはそんな継母に

「この人はもう半分頭がおかしくなっていると」 その常軌を逸した行動をかばいます。

しかしよくよく目を凝らして見てみると、

この「罪と罰」という作品の中でドストエフスキーが一番愛したのはこのカテリーナではないかと、

私には思えて来るのです。

まさか、と皆さんは

お思いでしょうが。

人間としてのどうしようもない不条理を生き、

常に自分の感情に溺れ、

悪態と愚痴をまき散らすカテリーナの中に、

救いのない憐れみを感じます。

そこには、絶望することさえ許されず、狂気と破滅の中に逃げ込む人間の、深い懊悩があります。

その姿をドストエフスキーがまるで映画のシーンのよう

に描いています。

夫マルメラードフの葬式を機に、

カテリーナの狂気が嵐のように暴走し、彼女が破綻していきます。

彼女は家主の女性を威嚇し毒づき、とうとう家を追い出されてしまうのです。

もう住むところさえ失くした彼女は発狂し、

子供たちに大道芸人のようなダチョウの羽の帽子衣装を着せて路上に連れ出し、

みさかいもなくフライパンを叩き、自分が歌う歌で踊らせます。

それを群衆が取り囲み、巡査が来て、大騒ぎになる中、

ソーニャとラスコリーニコフはやっとの思いでカテリーナをソーニャの部屋へと連れ帰りますが、

たくさんの喀血をした後にカテリーナは息を引き取りました。

しかしカテリーナ

が発狂していくこの場面はまさに圧巻です。

ドストエフスキーのペンが踊りまくります。

カテリーナの人生とはいったい何であったのでしょうか。

売春をしながら侮蔑と汚辱の中を生きるソーニャには、破滅はありません。

しかしそのソーニャの対極には、

何一つとして満たされず、不満と失意の感情に溺れて生きる、カテリーナの破滅が

あります。

ドストエフスキーが描くその光と影を通してわたしには、

どうしてもソーニャの方

がボンヤリとしており、

反対にカテリーナを描

くドストエフスキーのペンに躍動を感じてしまいます。

この作品も口実筆記で書かれていますから、

ペンというより彼の魂の躍動

かもしれません。

カテリーナを見ているとフェデリコ・フェリーコの映画「道」を思い出します。

映画の最後の方のシーンで、ザンパノに棄てられた狂気のジェルソミーナが、

ラッパを吹いている姿を思い出します。

ドストエフスキーの翻訳者の亀山郁夫さんの力も素晴らしいです。

この感想を書きながら、不肖私も、

こんな風に人間を見れたらいいなぁ〜と、溜め息をつきます。

罪も罰もすべて、掌に包み込み、

そこへ眼差しを落とす、文学者としての、

ドストエフスキーです。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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