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嬉しいことだらけ4、神の深淵を書くドストエフスキーの愛の世界!

凡庸な作家なら描き得ない。

凡庸な作家なら、

そこに目さえ行かず、君づきもしないだろうその、

深い深い神の深淵を、ドストエフスキーは書いているのです。

例えばソーニャなら万人にわかります。

彼女は売春をしながら極貧の家族を養います。

また敬虔なキリスト者でもあり、常に彼女の傍らには聖書がある。

その彼女によって殺人を犯した主人公は、

自分の罪に気づいていきます。

つまりソーニャは,分かり易い。

ところがカテリーナは、全く違います。

カテリーナの口から出るのは、愚痴と恨み節と他人への悪口ばかりです。

口汚なく他人を罵り、被害妄想の中を生きています。

ところがなぜドストエフスキーのペンが、

カテリーナの描き方に熱が入ったかというと、

カテリーナこそ、いかにも人間らしいからです。そして、

人間は、ソーニャのようにはなれないのです。

人間は、みんな自分の被害者意識やコンプレックスまみれであり、

そうでない人間は、一人もいません。

それは脳の持つ不可避的な構造です。

そういうコンプレックスや自分の被害者意識にすらに、

気づいていない人の方が圧倒的に多い。

例え気づいていても、自分ではどうすることもできない。

世を恨み、ヒニクレ、反対に自分の片意地な自我に執着ばかりし、

すぐ傷つき、すぐ切れる、すぐ拗ねる、嫉妬する。

自分ではどうしようもない自分を抱え、自分に振り回され、

どんどんそのネガティブな底へと堕ちてゆく。

それが人間であり、

救いがあるとしたら、

私たちは、そこまでは堕ちず、

その一歩手前のところでかろうじて、理性と知性が、

そのコンプレックスとネガティブな感情を、

堰き止めてくれているからです。

仏教ではそういう世界を「無明」といいます。

ドストエフスキーも挫折やシベリア流刑などと彷徨いながら、

人生の無明の世界へと行き着いたのではないかと、思います。

それがわかったからこそ、

ドストエフスキーは、

狂ったカテリーナに、

最後の一瞬の輝きとエネルギーの燃焼を与えた。

住む家を追い出され

子ども達にダチヨーの羽の帽子と衣装を着せて、

自分はフライパンを叩いて公衆の面前で踊るカテリーナ!

そこには例え精神に狂気をきたしてもなお、

一瞬の命の昇華が見えます。

彼女の最後の生命が花火のように爆発しています。

     ◯

知性がある人間は絶望します。 

なぜなら知性があるから世の中に希望がないことがわかるからです。

ドストエフスキーが愛したのは

知性で絶望する人間ではありません。

なにがなんだか訳もわからず、自我のネガティブな感情にのっとられている。

そして自分がそのネガティブな感情の罠にハマっていることすら、

知覚できない人間です。

それでも懸命に生きようとする人間たちです。

生きることは、自分のエネルギーが尽きるまで生きるしかないのです。

そんな無知と無明の中、精神に異常をきたした彼女の踊りは、

彼女を取り囲む群衆の中で,燃え尽きていきました。

ここには大きな愛の世界があります。

それが何であるかは書きません。

言葉にはならない、言葉にはしていけない、大いなる愛の世界です。

漱石の眼差しにも、同じものを私は感じます。

皆さんの直観がそれを掴んでいただけたら、嬉しいです。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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