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終わりを意識して書く。1

頭を酷使しすぎた。

今朝もFacebookの短文を書いただけで、そのあと頭に孫悟空の輪っかが嵌まっているような状態がしばらく続いた。

今回メニエル氏病のあの激しい嘔吐と眩暈は、限界を超えて酷使した私の脳の悲鳴のような気がする。

      ◯

夫が脳腫瘍で、しかも悪性であり、余命1年と告げられ時より、考えて、考え抜いた結果、

私は自分の感情をできる限り、フリーズする事にした。

勿論、感情に関わる記憶も一切思い出さないことにした。

その代わりに私の中に新たな思考の支柱を立て、今最も優先すべき事のみに、心身の神経を向ける事にした。

おかげで私はなんとか自分が感情に飲み込まれずにすみ、自我が崩れる危機を免れた。

極めて淡々とやらなければならないことを、理性の柱を立ててやってきたが、その中で、当然の如く、

この介護が終わる事は、夫の死の時である事と向き合わざるをえず。

それは翻って、容赦なく私にも突きつけられている私の人生の制限時間でもあることを痛感した。

この終わるという意識が私の中である種の存在感を持って作動し始めた時から、

私は、つきものが憑いたように書き始めた。

それはもの書きとしての私の使命感であり、私が存在する意味であり、

私自身の自己承認でもある気がしている。

私を揺り動かしているのは、

今のこの時代に対する危機感である。

それは決して感情的に捉われた悲観的なものではなく、人間の脳の必然性として、私に見えている危機であるが。

おそらくAI難民が多出するであろう次の時代への危機あり、

その反面、

かくも脳が幼稚になってしまったこの日本という国の劣化に対する大きな危惧であった。

また社会現象として、

知性も教養もない人間や、怪しげな人間が、政界にも、財界にも、マスコミにも文学界にも跋扈している。 

そしていつの間にか、この国には正義やモラルが希薄になってしまった。

確かに正義の扱いは難しく、

時には複雑に相対化されなければならない時もあるが、

しかし、最小的、極めてシンプルな正義が貫徹されていない社会は、危ない。

極めてシンプルな正義とは、

嘘をついてはいけない。

他者のものを盗んではいけない。

人を傷つけてはいけない。

人を殺してはいけない、などの諸々であり、

私達が共生していく為の、

️人間の絆の、掟である。

そういうものが社会の表面でボウフラの様に浮遊する詭弁家達によって、

自分達の都合のいい風に合理化され、捻じ曲げられている。

ほんとうは、

ダメなものはダメであり、

官僚は、政府や特定の政治家の為に、嘘をついてはいけないのであり、

事業者は、その利益優先の為に偽証、隠蔽してはいけないのであり、

マスコミは真実を告げなくてはならないのであり、

大衆は、しっかりと、その正義の物差しを持っていなければならない。

そういう事が、経済を優先する社会では、いつの間にか、諾々と骨を抜かれ、曖昧にされてしまった。

「日本はだんだん薄汚れてしまった」とは亡くなった司馬遼太郎さんの言葉であるが、

私達はどうしたらいいのか。

こんな事が、介護の合間を縫って、頭の中を巡り、

付き物が憑いたように脳に落ちてくる言葉を、私は懸命に書いた。

更には、言葉にはならないビジョンやイメージを、

いかに分かりやすく言葉に変換して説明するかエネルギーを費やし、

私はかなり脳を酷使したと思う。

そして今回次々と身体に異変が起き、もう力尽きた感がある中、ある種の悲観に捉われた。

いくら私が書いても、それは単に徒労に終わるのではないか。

地位も名もないただのお婆さんが、書くことに意味があるのだろうか。

私がいかに微力で脆弱なものであるかは痛いくらい理解している。

心理分析と脳科学を土台に私が書き、映画をプロデュースしてきた事は、無意味であったか。

私は何の為に生き、何の為に生命を注ぎ込んだのか。

もしかしたらほんとうは、

人間も、この時代も救い難いのか。

救い難いなら、諦めるしかない。

私の脳の中の抽象化した世界は、絶望的に救い難い方へとシフトした。

しかし、いやまてよ、と私は自分に言い聞かせた。

すべてが、そうではないはずだ。

時代は確かにとんでもない方へと向かうかも知れない。

豊かな時代に慣れきったこの国の国民。

目先の希望に飼い慣らされた人々の、歯痒いほどの脇の甘さと平和ボケと、稚拙なヒューマニズムは、

何かの拍子にあっという間に瓦解し、とんでもない荒みと荒廃に襲われるかもしれない。

つまりは行き着くところまで行かないと、人々は気づけないだろう。

ただしかし、それがもう最後まで行き着いた時、もしかしたら追い詰められた大衆たちの中に、

大きな覚醒や変容が起きるかも知れない。

それはまたあの戦後の焼野原から地力で生き抜こうとし、

歯を食いしばる人々の底力のように、

もともと人間の中にあるプリミティブな人間の生命力が湧いてくるかもしれない。

私はそれを信じたい。

人間の愚と狂気を書き尽くして死んだドストエフスキーが、

ロシア聖教の司祭ゾシマを通して青年アリョーシャに託した、

「神が愛した民衆を愛してください」という言葉。

ここに、すべての原理と原点を置くしかない、と、

私は考える。

おおきな時代の流れも

ボタンを掛け違えた人間の間違いも、

私には抗しようがない。

その無力感の中でも、力の続く限り現実を生きるしかない。

私は何の為に生きているか。

私が生きた事に微かなる実りがあるかどうか。

今日もまた私は、あたまを酷使しながら、

書いている。

              つづく。

あふれでる春!
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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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