言葉は芸術である。
言葉は最も美しい情緒でもある。
言葉の芸術性を読み取るには鑑賞眼が必要です。
大いなる知性が必要です。
その知性の根底には、
人間の悲しみと懊悩への深い認識がなければならない。
人間の悲しみと深い懊悩とは、
正義や道理では裁かれない、
裁き得ない「命」の輝きのことであり、
「命」の輝きとは、
人間の一切のことである。
漱石もドストエフスキーも、その一切を描こうとしている。
光であり闇であり、すべての色彩であり、
人間の感情も理性も不条理をも含む、
一切である。
それは深い懊悩が無ければ解き得ない。
深い情緒がなければとうてい理解し得ないだろう。
深い懊悩は、底知れぬ暗渠の闇を見守る人間理解である。
その深い懊悩の鑑賞眼を持って文学の言葉を読み解いていくと、
キラキラと輝く言葉の芸術がまるで絵画のように、或いは映画のように現れて、
感動する。
漱石の世界は、沈黙の墨絵のようでありまた「書」のようでもある。
ドストエフスキーの世界は、
ギラギラギラとした油絵の世界であり、巧みな饒舌の中に、
喜びも悲しみも絶望をも突き抜けて
悶え苦しむ人間の懊悩が、
宝石のように露れてくる。
そういう時私は,読みながら、えもいわれぬ感動に心がうち震えます。
そして、その深い懊悩が、神の沈黙の中で、
祝福されていることが、
わかる。
神はその沈黙の掌の中に
赤子のように人間を包み込んでいる。
漱石の書のような世界も、
ドストエフスキーが紡ぎ出す光と影の煌めく絵画も、
よくよく「人間が生きるという困難さ」をわきまえていないと、
見えて来ない。
それはまるでメビウスの輪のようである。
その輪の中で人間というものが語られ、その輪の中で私もまた、
踊り(書き)続けている、のだと、
思っている。]

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