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普遍性とは、イデー(観念)でも、創造でもない、感覚から感覚へと、手渡されるものその1

◆感覚こそが普遍的最近しきりに思うのは、

人間にとって普遍的なものは、感覚ではないかという事です。

まあ、本能の一部ですから、人類共通と言えば、そうなのですが。

痛いとか、暑いとか寒いとか、美味しいとか不味いとか、明るいとか暗いとか、

心地よいとか、不快とか、

まあ、人によったり、環境や文化による誤差もあるけど。

そんな中で、人が美しいという感覚は、

どういう時、或いは場面でおきるのか。

さらに脳の前頭葉が、いわゆる高邁な事象に感動するとは、どういう事か、

その普遍性は、何処にあるのかを、考えています。

そしてそれを映像、映画にした場合は、何をどの様に映像化したらいいかを、

このポンコツ頭を叩いて、模索しておるのです。

そして少し見えてきたのは、

それは、決して物語(ドラマ)ではない事。

イデー(観念)でも、創造でもない、感覚から感覚へと、手渡されるものであり、

更に、それは温度が低い映像であろう事。

なぜなら、映像の温度が低ければ低いほど、視聴する人間の感情の起伏が収束し、

感情がニュートラル状態になっていくからです。

これは、重要な鍵で、感情の昂揚を出来るだけ低調に抑えて進行すると、

一方では、呼吸が安定し、集中力はどんどん冴えて行くでしょう。

映画を作る方も、見る方も、心が澄み切った水面のような状態で、

作りては、感覚と直感を手がかりに撮り、

見る側は、感覚と感性を通して見る、と言うことが前提です。

そして、実際の上映時においては、静かな緊張が、場面の進行に添ってゆくが、

しかしそれでも終点に向かってゆくにつれ、微かな漣が起きてくる。

そういう心が澄んだ中で、その漣は、

最も本質的で、根源的な根の様な場所へと

◎感覚的に、辿り着いてゆく。

そこでしっかり映画のメッセージである、<己れの根と存在の価値>を

感覚で、掴み取って貰いたい。とまあ、

そんな映画を撮りたいと、

老いたるこの脳をミキサーにかけながら、

考えちょるわけです…笑!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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