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なぜ普遍的なものは、決して物語(ドラマ)でもないイデー(観念)でも、創造でもないのか、その2

いつも私の拙文を読んでくださり、

本当に恐縮です。

なんだか訳の分からんことをゴチャゴチャと書く田下への応援をしてくださっているのかと、

感謝のかぎりです。

今回も映画制作上の技法について、あれこれと頭に浮かんでくる言葉を書いていますので、

田下は取り留めもなくアレコレ考えるのだと、

面白がってお読みくださると嬉しいです。

書きながら自分の頭の中を整理しているという次第です。…垂頭!

なぜ普遍的なものは、決して物語(ドラマ)でもないイデー(観念)でも、創造でもないのか。

普遍的なものは、厳密に言うと人間の観念や創造以前のものであり、

人間が、作りだしたものなどではないな~と、気づいたからです。

それは、皆さまには余りなじみのない映画監督かもしれないのですが

例えばロベール・ブレッソンの映画作品「抵抗・死刑囚は逃げた」を見た時も、

テオ・アンゲロプロスの映画「旅芸人」や「シテール島への船出」その他を見た時も、

映画の筋ではなく、その感覚と感性の素晴らしさが、

私の内面の考察を開いていったからです。

脳は、それぞれの人間において完結されていますから、

イデー(観念)や創造は、例えば地球人口80億人いたら、80億のバリエーションがあるわけで、

しかもそれは、様々な文化文明と歴的背景を持つものです。

だから材料やモチーフは数限りなくあるわけです。

特に通俗ドラマは、延々と恋愛ものや家族ものや社会もの、

いわば、人間関係ものをやり続けるというわけですね。

まあ、ネタに事欠かないということです。

しかしもう人間も映画も、そこから脱却、或いは脱出しなければならないのではないか、

と私は考えています。

そうでない限り人間社会は人間どうしの小競り合いを乗り越えられず、

永遠に平和は来ません。

もう、そういう人間ドラマを超えた新しい世界観を提示しなければ、と

私は思うのです。

いわゆるドラマや既成概念の世界を超えるものが必要で、

それは感覚という普遍性を持つツールで、作り出していかねば、或いは感覚ツールでイケルと、

そういう時代に入っていると思います。

反対に人間ドラマなどは、これからは、AIが作りだしてしまうでしょう。

なぜ感覚かというと感覚はダイレクトに人間へと伝わってゆくし、

その振り幅も小さい。

痛いのは誰でも痛いしという風にです(もしかしたら短絡かもしれませんが)

それでも、その感覚も自我で汚れているから、

いかに自分の内面の汚れを透明化するかであり、

ブレッソンもアンゲロプロスもそこが、その自己検証作業が凄いのではないかと、

私は感じたのです。

宮澤賢治も自己浄化というか、自分の言葉の透明化に優れていました。

特にアンゲロプロスの映画は、物語のほうにシフトされていきがちですが、

その奥にある感覚のほうに凄みがあると、私は感じました。

ストーリーにはことさら現れていないけれど、なんだか伝わってくる何かです。

では自分の感覚をどのように普遍化し、駆使して、具体的な映像へと具体化していくか、

そこが作りての地獄のモンモンになるわけです・・・苦笑!

よけいなものをいかに取り去るか、

作り手は喉首に短刀を突きつけられて、もがくわけです!!

あゝ・・・トホホ!

樋口一葉は、本当はどんな女性であったのかを、書きました。

よかったら読んでみてください。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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