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◆ 道元のシュール!

岡本太郎から突きつけられた、

人間の根源的幸せとは何か。

私達はまだその答えを出していない。

むしろ物質文化や、高度テクノロジー社会や、グローバル経済や、

めざましい科学技術に、その答えがあるように錯覚している。

しかし、

最も根源的な事は、

人間は、労せずしては、何も手に入らない事である。

ありとあらゆることにおいて、

労せずして手に入ることはない。

心さえも、労せずしては、

幼稚のままでしかありえない。

人間の葛藤を書き続けた漱石も、

人間の自我が暴走する様を描き続けたドストエフスキーも、

彼ら自身の、暗い暗渠を脱出するために、

その人生すべての時間を費やし、

もがきあがく中で書いた。

今NHK大河では、これまでにはない鎌倉幕府の内実が放送されているが、

鎌倉時代の僧道元は、

政治、権力には近寄ってはならない、と師の如浄からの戒めにもかかわらず、

現実的な寺の経営に困窮し、鎌倉の北条の元に行く。

しかし、半年で引き上げてしまい、その後

身体をこわし四年後には亡くなってしまう。

これはあくまでも私見であるが、

武士の世界の救い難い権力争いと 

身内どうしで殺戮する現実に、もしかしたら道元は絶望し、

力尽きたのではないかと、私は思うのであるが。

再び、根源的な人間の幸せは何か。

それは、人間の存在を抜きにしてはあり得ない。

では人間の存在とは。

それは、

その命と身体を使って、自然の恵みの中で、精一杯生き尽くすという事だと、 

私は考える。

考える葦である人間が、

その頭と身体をフルに使って、

全身で生きることこそ、

存在が成就される。

確かに文明はめざましい発展を遂げた。

そして文化も繚乱に開いた。

経済も素晴らしく豊かになった。

しかし、人間は

労せずには何も手に入らない。

知恵を使い、頭をつかい、

身体をつかい、心を使い、

そして、大いなる自然の中で祈り、

その生命を全うしていく。

このシンプルな、ゆるぎないプロセスの中に、根源な幸せがあると、私は思う。

喜びも悲しみも、虚無も絶望も、すべてが生き抜いてゆくプロセスであり、

だからこそ、漱石もドストエフスキーも、無言で、それを見渡して書いた。

私の大好きなワイエスは、慎ましく生きる人間の人生や暮らしの、その一片を切り取り、絵にした。

しかし、その一片の中には、

一片ではあるが、その人間のすべてが語られている。

では道元はどうであったかというと、

身内どうしで殺し合う武士の現実に、宗教家としての自分の無力さに、

もし彼が言葉を失ったとしたら、私は、

それはそれで良いと思う。

なぜなら、漱石もドストエフスキーも、ワイエスもが、同じように

現実の厳しさに、

言葉を失いつつ書き続けたと、思うからである。

労せずしては手にはいらない人間の幸せ。

だから、苦労して、辛抱して、

生き抜いて、ご覧なさい。

存在を駆使して

生き尽くす中にこそ、

宝物が手に入る。

「膜妄想」

渾身の力で生き抜く。

その条理を分かっていてこそ

作家であり、

その眼差しの奥には、

人間のすべてを肯定し尽くす、

おおきな愛がなければならない。

おそらく道元も、自らの宗教理念の

大いなる完成として、

最後はそのシュールな普遍的世界へと行き着いたと、私は思う。

そして、

最後は、人間の幸福を思う、

その祈りの中の死であったろうと、

私は思う。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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