もし賢治がそれなりに作家として売れていたら、
あのような透明度のたかい言葉と作品を書き続けることができただろうか。
賢治の言葉は、苦い修羅の自分を持て余し、もがきながらも、
しかしそれでも高みをめざす彼自身の奇跡的な知性があったからだと私は思う。
彼の傍にはいつも法華経の慈悲の世界があったからだと思う。
それは一葉も同じで、借金を踏み倒し、
相場師久左賀義孝に近づいて金を引き出そうと乗り込んでいく様などは、
あばずれまがいな姿がある。
しかしそういう彼女のそばにも格調高い古典文学の世界が塔のようにあり、
その自尊と矜持こそが極貧の世界を描いてさえ、品格をもたらした。
私に言わせると、二人ともが通俗的な富には恵まれなかった故に、
その高潔さを維持できたのではあるまいか。
よそ目には不遇であろうと、彼等は書く事で、いつも満たされていたと私は思う。
薄っぺらな世の中の、好き嫌い、切った張ったのあれこれではなく、
人間の本質本流に斬り込み、
透明な言葉世界で書き綴る時、
彼等自身も浄化されていったと、私は思う。
いつも思うのであるが、
川(世の中)の表面を流れる水よりも、
川底の澄んだ水の中に、思いがけなく涼しく美しい世界(人や作品)があるような気がする。
特に今は世の中の澱みがひどい。
そんな中、世の喧騒から離れたところでひっそりと、
いい作品や善き人々がいるかもしれませんね。
そんな気がします。

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