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社会からも人生からも解放される、その1

もう,決めました。

お父さん(田下憲雄)の本の発刊とYouTubeでの,動画,映画の公開、

それに伴ったブログを書き終えたら、

私はまったく自由になる。

勿論爺さんの介護をしながら,の話であるが。

最近わかってきたのは、本当の幸福とは、

自分を見極め尽くせることではないか,ということである。

つまり、自分の実体と、もう一つの自分,

それは鏡に映って見えるような自分で、

自分(私)は、その鏡に映る自分の姿を、

自分(私)の客観性を総動員しながら分析し、みている。

その時私は、鏡の中の自分に、

お前は道理の中を歩いているか?

お前は清新の中を歩いているか?

お前は,醜い執着を捨てられているか?

と、問い続けている。

どうしても私の遺伝子が巻き起こす感情から逃れられず、もがく自分(私)を

鏡の中の自分(私)がジーッと凝視している。

問いかける。

お前は雨上がりの笹の葉の上の水滴のように、なれるか、と。

その水滴のように、周囲を映しながらも、

透き通って無欲に瑞々しくなれるか、と。

私の人生はそこを目指しもがき続けてきたように思う。

おそらく私の人生はそこに到達した時輝き、夢のような充足を得るだろう。

萩原朔太郎の随想「虚無の歌」を追想する。

「私は一切を失ひ尽くした。けれどもただ、ああ何といふ楽しさだろう。私はそれを信じたいのだ。

私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。

永久に一つの「無」が、

自分に有ることを信じたいのだ。

私の空洞(うつろ)な最後の日に。

今やかくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失わなかった。

私は喪心者のように空を見ながら、

自分の幸福に満足し、

今日も昨日も、ひてりで閑雅な麦酒を飲んでいる。

虚無よ、雲よ、人生よ。」

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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