MENU

時代が違うんだなぁーと思います。

時代が違うんだなぁーと思います。

私の頭が古い、とは言いたくはありません。

そうではなく、現代の人間の脳機能が、鈍化していったのだと、

思います…笑!

例えば樋口一葉の文語体の文章が、

どんなに流麗で美しいか、分からない人の方が多いでしよ。

興味すら無い人が殆どでしょ。

私は多分一般的な水準より、何倍も本を読んできたと思います。

そして文字文化の、

文章の美しさや、ダイナミズムや、

それが為す官能の世界のキラキラした感覚と感情に、

惹かれてきました。

勿論文学の底に谷川の水のように流れる、

思想,哲学、宗教、歴史の世界がどんなに素敵であるかも、味わってきました。

それは、私の人生を導いてくれる指南書であり、手びき書でもありました。

しかし、でも、もうそれらが通用しなくなった世界が起きてきました。

例えば、一葉が直面した、

貧しいという事の実感も、今の人にはわからないでしょうし、

また男尊女卑で、道をふさがれていた女性作家の怒りというのも、

今の人は、

ピンとこないんだろなぁ〜と思います。

そういう意味では、肌感覚として、

一葉の文章に溢れるキラキラした感覚がわからない。

一葉が、男社会の壁を突き抜けようとしたその気迫が、

彼女の文体の流麗さとなり、

たとえ売春吉原であろと、

そこに生きる人間の品格と誇り高さを筆で描きだしました。

漱石はイギリス留学により、強烈な西洋世界との違和感に会い、

帰国後は自分の感じた違和感から、

「日本人という人間」の中にある、本質な日本人どうしの関係性、

それを生み出す、感覚、感性、思想、哲学、そして宗教性を、

小説の中で突き止めていきました。

所謂漱石の小説は、男女の情愛でもなく、感傷でもなく、

思想と哲学の世界である事を、

評論家の江藤淳が突き止めています。

いう成れば、

何かこういう重厚なものが通用しなくなっている社会。

殆どの人が、おそらく表面的な感覚しかわからなくなっているという事。

そういう時代になったのですね。

私が言いたいのは、

文章や文体の煌めきは、エクスタシーでもある事です。

文章,文体は官能世界でもある。

湖面に射すキラキラした光のような感覚も、

身体中を突き抜けていく情念のウネリを、

現代の人間は、文学から体験できないとしたら、

本当に気の毒だと私は思います。

あれだけ沢山の本を読んだのに、

漱石、一葉、しか尊敬がわかない。

なぜ鴎外には私の関心がいかないのかと言うと、

鴎外も女性に対する尊敬があったと思いますよ。

ただ彼が、一葉の葬儀に参列することを、断られたと言う事は、

つまり、一葉も彼のかっこつけや、女性幻想に対する甘ったれを、

見抜いていたのかなあと思います。

もちろん、それは、川端や三島や太宰の中にあるナルシズムや甘ったれでもあり、

私はそれが嫌なんだなぁと思います。

私は、言葉の感覚で言うと宮澤賢治も大好きですが、

宮澤賢治の中にも、やっぱり世間知らずの甘ったれがありました。

ただ、賢治の場合は、死ぬ寸前にそれを悟り修正しています。

漱石も一葉も、賢治も、共通するのは透明感です。

そして、めめしさがないんですよ。

それは、

付着する自我の汚れを許さない、

彼らの戦いでもありました。

そこには、水の流れのような、清々しさがあるからだと、

思います。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

コメント

コメントする