本を捨てようと思い本棚を見たら、昔読んだ大江健三郎と江藤淳の対談集があった。
ちょっとばかり食指が動き、また読み直そうかと思ったけど、面倒なのでやめた…笑。
その代わりに巻末にあった柄谷行人の批評を読んだ。
確かに大江に対する柄谷の批評はそのとおりだと思うが。
大江も江藤先生もなぜ絶望するのかというと、
優れた人間になればなるほど、脳の認知世界が広いから、
普通の人間より、より深く、より遠くまで見渡せる。
つまり、これはこうなって、結局はこういう結果を引き起こす、というふうに、将棋で言ったら何手先も見えてしまう。
しかしその何手先の世界が、時間とともに現実化した時、
作家の自分がイメージしたのとは、ズレてくるから。
大概の文学者というか、インテリジェンスが高い人間は、
絶望する。
なぜなら、インテリジェンスが高い人ほど、人間に対する理想も高いし、その要求度も厳しいからです。
例えばドストエフスキーなんかも、その落差に悩み続けた。
しかし現実は、その理想よりもずーっと堕落しているし、
民衆は土着的欲望で生きているからね。
そして世の中は、たいがい作家が予想した悪い方へと、動いていく。
しかしそれが人間の現実です。
つまり作家が予想したより、
現実のプリズムの光は、
たくさん屈折してひずんでいくんですね。
その屈折する現実の中で、江藤淳も大江健三郎も、どうすることも出来ず、
ただただ屹立するしかない、作家としての、避け難い不条理を、
柄谷氏が語っている、と、いうわけです。
私としては、大江の作品を読むたびに、彼がその不条理の前で立ち尽くしている事が見えた。
そこに大江文学の価値を私は見ていたと、
思う。

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