大江健三郎と江藤淳対談についての柄谷行人の評論について書き終えたあとに、
もしかしたら江藤、大江両氏の現実に対する絶望は、
門の前に立ちすくんだ夏目漱石の絶望と同じものではないかと、気づいた。
作家達の前に無言で立ちはだかる門。
大江さんは果たしてその門を開くことができたのであろうか。
もしかしたら江藤先生も西部邁氏も、門を開けられず、自死したのではないか、という思いが込み上げてくる。
さて私はというと。
実は私もその門の前で屹立している一人である。
いまだ人生の答えが見つからないのである。
ただ私は今薄っすらと、
その門の向こう側に群れを見ている。
群れとは人々のことであり、
もしかしたら漱石もあのガラス戸の向こう側に、陽炎のように写る人々を見ていたのではないかと思う。
漱石もある種のミザントロピー(厭人感)を持っていたのではないかと思うが、
私も厭人感に襲われながらも、ガラス戸の向こうの人々を見ている。
一方では人々の幻影をみながら、もう一方で、救い難いこのクソ社会をからおさらばしたい私がいる。
そう思いながら必死で、自分の頭の中を分析している。
社会の底で頑張ってくれている人々を思い浮かべながら必死で頭の中を分析している。

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