◆立花隆氏を悼んで、立花隆氏、養老孟司氏、そして良寛!その2

世界に対峙する日本経済を心配する私は,立花氏の本を読むたびに安心した。

リアリストである氏の著述からは、

心配しないでいいよ、
日本の先端科と技術力は素晴らしいから!と教えてもらった気がする。

以下の記事は以前、立花氏、養老氏、そして良寛について

ブログで書いたものです。

今回立花隆氏を悼み、再度載せています。

◆立花隆氏、養老孟司氏、そして良寛!その2

実のところ私は今のデジタル社会に疲れ切っている。

ただ、それも私が歳をとっていて、
人生そのものにも疲れているからかも
しれないのだが。

とにかく、スピードが早く、
小刻みに刻まれて来る情報や刺激に、
神経が疲れ、
ついていけないのである。

まあ、そういう私の事情もあり、

養老氏が書いておられることに

私は共感する。

デジタルな世界とは、

頭の中を行きかう<意識の世界>ではないかと

私は思っています。

養老氏が言う意識の世界です。

養老氏はその意識の世界が

どんどん煮詰まってしまっていると

書いています。

なぜなら、それは

意識が先行し、体の感覚入力がおろさかにされ、

本来なら人間は感覚入力しながら(体験しながら)

外的世界を掴んでいったのに、

現代の人工的世界で、

どんどんコンピューター情報の世界のほうが上位におかれ、

それぞれの個人(自分)が感覚入力して得る情報が

下位に置き去りにされているからだと。

事実私の周囲にも、

自分が人生の中で体験したことや

実感したことを、

自分でデイスカウントしてしまい

逆に

コンピューター世界、

つまりインターネットで得たものが

あたかも素晴らしいように錯覚している人が

かなりいます。

本来自分が体験したり、経験して、

実感して(感覚入力して)得た世界より、

頭の中で得た知識や意識の方を

有力視して生きている。

そういう頭でッかちの観念的な人間が増えているように

思います。

立花氏の本を読むと、もう文明の進行と技術革新は

とめられないように思います。

つまり世界中が、もしかしたら地球中が

人工的世界へと突き進むかもしれません。

世界はどうなるのであろう、と思うのですが、

立花氏はリアリストですから、

と言われそうですが・・・。

「そんなこと言ったって

だってもう、私たちはまさに、衣食住が人工的に

工業化されたど真ん中でしか、生きれなくなっているでしょ!」

しかし

そうなると、人間はどうなるのかな~と

思うのです。

それに対して養老氏は警告しています。

人工的な世界はまさに人間にとって不自然な世界であり、

しかも都市はどんどんそうなっている。

そして都市こそは意識の世界で造られており、

そこでは

<意識にとって意味のないものや価値のないもの>が

ドンドン排除されてしまう。

しかし、人間は本来、

脳(アタマ)と体の<全体性>で生きており、

さらに感覚入力されたもの中には、

漠然としてあるものや

言葉や意識で明確化されないものが

無意識の倉庫には。

たくさんある。

しかしデジタル社会はそういう、

曖昧で漠然としたものを

排除していきます。

そういうデジタル現象世界を

人間が選んでしまったのです。

なぜなら、それは

『人々が自然に対峙する方法をわすれてしまったことに

根本の原因がある。

なぜ忘れたかというと、

感覚入力を一定に限ってしまい、

意味しか扱わず、

意識の世界に住み着いているからだ』

養老さんは書いておられる。

もっと私流に極論すると、

本来アナログであるはずの人間が

どんどんコンピューター情報世界に、

意識の価値が一元化され

あたかも、そういう世界が、

アナログ世界より上位にあるかのような

勘違いに、人間が取りこまれてしまった。

   ・・・・・・・・・

人間が汗をかきながら、鍬で土を耕す。

その土を手で触れながら、土のザラザラ感を確かめ

土から昇ってくる匂いを嗅ぎ

さらに土の中に手をいれると温かい。

それは土の中も生きているからだね。

そこに微生物をはじめとする

生きものという

不連続の連続性の世界があります。

そういう

人間の体を通して実際に感覚入力されたことと同じことを、

テレビで見たり、小説で読んだり、さらにインターネットで知っていても、

それは、その人間が体で得たものとは全くの

ベツモノです。

一方は、

体とその感覚が、

連動しながら得られたもので、

一方は、

観念の中で把握され、

自分の無意識の倉庫にある感覚を

ググりながら、

推測、想像された疑似感覚にすぎません。

体の体験的実感と、

観念が想像して得た疑似感覚との

落差を、

人間はどのように克服できるのか。

断っておきますが、

私は今のインターネット社会を否定するつもりはありません。

そうではなく、デジタルなインターネット社会と

アナログ的人間の世界を、

◎どのように折り合いをつけていくか

ということの重大性を思うのです。

養老さんは脳学者ですから、

人間の脳は

<個々に断絶している>ことを熟知しています。

そして、

文化人類学の岩田慶冶先生の名言どおり、

「人間は断絶を介してしか繋がれない」のです。

しかしそのことは、逆に言うと、

人間は個々に、多様な、その自分世界を生きている、

ということです。

その<個々に多様な自分世界>とは

まさに

人間がそれぞれに、

<自分の感覚入力した世界>を持ち、それに基づいて

生きているからです。

ところが、

<意識>で繋がるデジタルなコンピューター世界

インターネット世界は、

その個々の多様性をドンドン抽象化し、

平板化、或は一般化して

成立しています。

もっと平たくいうと、世界がどんどん

コンピューター世界でフレーム化されていくということです。

多分養老氏もそうだと思いますが、

私がもっとも危惧するのは、

感覚、感性の多様性の消滅です。

そして

観念的な人間の一番の問題性は

それが疑似的が感覚入力に過ぎないのに

分かったつもりになることです。

その事を次回書きますが、

立花氏が教えてくれた先端科学の世界と、

養老氏の説く脳の世界の両輪を俯瞰しながら、

私は考えるのです。

        つづく!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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