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◆ AI科学の時代だって、A I万能じゃない。別の生き方もある。

今日はA I時代に生きるためのひとつの選択と言うか、そういうものを書きました。

A I科学の時代だからといって、AI万能じゃない。

むしろ皆が一斉にA I経済の

ベルトコンベアに乗せられて行く中で、

あえて反対の選択をすることも、非常に有効だと、私は思う。

例えば、映画「どこかに美しい村はないか」にでてくる自然栽培の米作り農家の菊池青年夫妻や、

栃木の茂木で宿屋と農業を頑張っている君島夫妻や

埼玉で有機栽培の野菜を作る横田青年など、

まだまだ少数ではあるが、全国には、世の流れとは別に、

独自の選択をしている青年たちがいる。

彼らの意識がそうであるかどうかは別として、

以外に思われるかも知れないが、

私から見れば、

彼らは時代を先取りした先駆的な選択をしているとも思う。

ほとんどの人々が、AI経済の中で、効率的かつコストや利益を優先し、

世界経済と連動するおおきな波の中に埋没して行くだろう。

その中で、はたして個としての自分を守れるだろうか。

A Iの弾きだすデータによって仕分けされない人間としと在れるだろうか。

それに比して上述した彼らは、

自分の経済を自立的に立ててかつ、

そこにはごく自然な流れとして、

大自然と共に生きる生き方が選択されている。 

つまり

経済も、生き方もが、

彼らのドメインの中で設定さている。

※ ここで言うドメインとは、

自分の能力や技術が、

充実して発揮できる範囲や領域のことです。

彼らの場合、世の中の動向よりも、

生き方の核としての農業、

そしてそこから広がる彼らの精神と知性の領域が、

彼らの人生を熟して行くだろう。

そして、

これは農業だけではなく、

どんな領域に於いても、どんな職業においても、同じである。

工業や商業、サービス業や自由業においても、芸術分野においても。

自己ドメインを核として設定し、

それに沿って人生を設計する。

つまり独自な経済と生き方を設計、

デザインしていかない限り、

A Iの時代に呑みこまれるかも知れない。

自己のドメインを見つけるには、

冷徹に自己幻想を取っ払い、

徹底した客観的な目で、

自分を検証しなければならない。  

生き方の核もドメインも、さまざまなバリエーションがあり、 

それぞれの自分の生き方を、

デザインする時こそ、

A Iを超えるその人の

独創性が生きる。

そして付け加えたいのは、

このままA I経済が進み、

世の中が高度テクノロジー社会になればなるほど、

その時、

もしかしたら、 

畑や田んぼが、

A Iの工場のようになっていない、

つまり

そこに一面に、ソーラーパネルが、覆いかぶさっていたり、

田んぼの中に人工物がたち並んでいない、

畑が水耕栽培のビルになっていない、

映画の中のあの遠野の風景のように、

昔ながらの田園が保持されていたなら、

それも大きな経済効果を産むようになるのではないかと、

私は思うが。

そこにはまさに人と人の力が働き

そして人と自然とが協働して生まれる美しい風景があるからね。

そこに確かに、

人間の息吹きがあり、

人々がいかにも人間であることを

取り返す場でありうる。

あのイギリスのコッツウォルズ.湖水地方みたいにね。 

時代は何が起きるからわからない。どのように変貌して行くのか分からない。

それでも、A Iテクノロジー社会へと突き進むとしたら、

逆に私は、

おいてゆかれる都市の下町や田舎の中に、

まだA Iに飲み込まれていない人々を見いだし

A I経済に対抗しうる可能性をみるが

どうだろう。

これも幻想かなぁ。

これからは科学の時代が来ることは間違いない。

科学の時代、

神仏に頼らない、新しい精神世界で、

一人ひとりがリアリストとして、

自立的経済と、

地に足がついた生き方の、

そのいう厳しさの中に

一点の自分の核を探し見つけること。

そこから、

人間だけが持ちうる、

開拓と自尊の精神を持って、

人生を切り開いてもらいたい。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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