今日はA I時代に生きるためのひとつの選択と言うか、そういうものを書きました。
A I科学の時代だからといって、AI万能じゃない。
むしろ皆が一斉にA I経済の
ベルトコンベアに乗せられて行く中で、
あえて反対の選択をすることも、非常に有効だと、私は思う。
例えば、映画「どこかに美しい村はないか」にでてくる自然栽培の米作り農家の菊池青年夫妻や、
栃木の茂木で宿屋と農業を頑張っている君島夫妻や
埼玉で有機栽培の野菜を作る横田青年など、
まだまだ少数ではあるが、全国には、世の流れとは別に、
独自の選択をしている青年たちがいる。
彼らの意識がそうであるかどうかは別として、
以外に思われるかも知れないが、
私から見れば、
彼らは時代を先取りした先駆的な選択をしているとも思う。
ほとんどの人々が、AI経済の中で、効率的かつコストや利益を優先し、
世界経済と連動するおおきな波の中に埋没して行くだろう。
その中で、はたして個としての自分を守れるだろうか。
A Iの弾きだすデータによって仕分けされない人間としと在れるだろうか。
それに比して上述した彼らは、
自分の経済を自立的に立ててかつ、
そこにはごく自然な流れとして、
大自然と共に生きる生き方が選択されている。
つまり
経済も、生き方もが、
彼らのドメインの中で設定さている。
※ ここで言うドメインとは、
自分の能力や技術が、
充実して発揮できる範囲や領域のことです。
彼らの場合、世の中の動向よりも、
生き方の核としての農業、
そしてそこから広がる彼らの精神と知性の領域が、
彼らの人生を熟して行くだろう。
そして、
これは農業だけではなく、
どんな領域に於いても、どんな職業においても、同じである。
工業や商業、サービス業や自由業においても、芸術分野においても。
自己ドメインを核として設定し、
それに沿って人生を設計する。
つまり独自な経済と生き方を設計、
デザインしていかない限り、
A Iの時代に呑みこまれるかも知れない。
自己のドメインを見つけるには、
冷徹に自己幻想を取っ払い、
徹底した客観的な目で、
自分を検証しなければならない。
生き方の核もドメインも、さまざまなバリエーションがあり、
それぞれの自分の生き方を、
デザインする時こそ、
A Iを超えるその人の
独創性が生きる。
そして付け加えたいのは、
このままA I経済が進み、
世の中が高度テクノロジー社会になればなるほど、
その時、
もしかしたら、
畑や田んぼが、
A Iの工場のようになっていない、
つまり
そこに一面に、ソーラーパネルが、覆いかぶさっていたり、
田んぼの中に人工物がたち並んでいない、
畑が水耕栽培のビルになっていない、
映画の中のあの遠野の風景のように、
昔ながらの田園が保持されていたなら、
それも大きな経済効果を産むようになるのではないかと、
私は思うが。
そこにはまさに人と人の力が働き
そして人と自然とが協働して生まれる美しい風景があるからね。
そこに確かに、
人間の息吹きがあり、
人々がいかにも人間であることを
取り返す場でありうる。
あのイギリスのコッツウォルズ.湖水地方みたいにね。
時代は何が起きるからわからない。どのように変貌して行くのか分からない。
それでも、A Iテクノロジー社会へと突き進むとしたら、
逆に私は、
おいてゆかれる都市の下町や田舎の中に、
まだA Iに飲み込まれていない人々を見いだし
A I経済に対抗しうる可能性をみるが
どうだろう。
これも幻想かなぁ。
これからは科学の時代が来ることは間違いない。
科学の時代、
神仏に頼らない、新しい精神世界で、
一人ひとりがリアリストとして、
自立的経済と、
地に足がついた生き方の、
そのいう厳しさの中に
一点の自分の核を探し見つけること。
そこから、
人間だけが持ちうる、
開拓と自尊の精神を持って、
人生を切り開いてもらいたい。

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