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悪について、

昨今の世相から、

なんとなく『悪』について考えていたら、

偶然Facebookで、「悪」について書いている人が二人いた。

秋葉原事件の犯人の刑が執行されました。

彼の生い立ちや環境から心理的に追い詰められていったことはわかるが、

彼自身が、余りにも知恵が足りず、その 思考の短絡が、犯罪へと暴走させた。

ただ、彼の繊細さを思うと、

もしかしたら彼は、自分が命を奪った人々への悔恨を思い、死で償う覚悟ができていたかもしれないと、

私は勝手に想像している。

悪の心理とは何か、

欲望、コンプレック、そして遺伝的、或いは内在的暴力衝動などが、

一定の理性の水域を超えた時、

暴力的衝動や策謀的快感へと

その人間の内面を乗っ取ってしまうのだろう。

それにしても、日本はなんと情けなく薄汚れてしまったか。

政界は韓国のカルトに汚染され、

オリンピックも、もはや予想通り、電通との癒着の巣窟であり、

俗世間は、低俗な醜聞まみれであるよ。

いつの世も、悪ははびこる。 

人間界はなぜか、

善の彼方に、

汚水桶のように、

悪の浮腫が生まれてしまう。

なぜなら人間が生きるとは、汚れで行く事でもあるからだ。

私達は、紙一重で、善の彼岸にいる。

それは、脳が

理性の座(前頭葉)と

本能の座(辺縁系)の二重構造にあるからだと、私は考えている。

辺縁系は、命を保全するための欲望や、怒りや、攻撃的感情や怯えや恐れ、自己防衛の座でもあるからだ。

そして人間史において、

汚れ、濁るその悪水も、

常に

悪に染まらない、 

一定数の心あるの市民の良心で、浄化されては、

なんとか社会をもちこたえてきた。

法律とは別の、目には見えない

それが、

社会の中で、ちゃんと機能してきたのだ。

社会というものは、常にそういう市民の良心に、

底支えされてきた。

しかし、今、悪い意味で、市民の知性が上がっている。 

まあ、賢くなったと言うか、

もっと言うとズル賢くなった。

なぜなら、傍観者や、調整的思考の市民が増えているからだ。

かかわりを恐れ、

ことなかれと、見ないふりをし、少々の悪は見逃した方が良い、と言う

傍観者や、調整型の人間が、この国の大半を占めてしまったのではないだろうか。

しつこく言う。

悪はいつの世にもはびこる。

しかし、その悪も、常に、

心ある市民の良心に浄化されながら、我々の社会は生き延びてきた。

今は薄汚れくらいかも知れないが、もうこれ以上汚れが進んだ時

果たして、これ迄のように市民の浄化が機能するだろうか。

最後に、悪の根底には、その人間の絶望感と無力感がある。

もし、そこに希望や未来への展望があったなら、

そういう出口や扉があったなら、

悪は次第に自然に収まっていく。

今、この閉塞の中で、

出口がふさがれ、

閉塞が極点に達しないように、

どんな時も、絶望ではなく、

いつか風が吹き抜ける窓を持っている事だと、私は思う。

多くの人々の良心は、きっとそうであろうと、

思います。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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