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◆ 悪について、その2、私達は目を凝らして、何を見ていたらいいのか。

何を見ているべきか。

私達は目を凝らして、

何を見ていたらいいのか。

     ○

私達はどうしても、悪にたいしては注目してしまう。

なぜなら、自分の存在が脅かされるからだ。

しかし、

よくよく考えてみると、

その悪をはるかに凌駕する善良な市民に囲まれている事にも

気づく。

うんざりするような政治家や、欲深な人間や、

軽薄な俗物が闊歩する世の中は、

確か目に余るものがある。

しかし、

そこに目を落とすのは、違うような気がする。

私達が目を凝らして見なければならないのは、

日々コツコツと辛抱強く誠実にいきている正直な人々で、

ことさら目立つこともなく、しかし

彼らこそ、この国を支えている

多くの無名の人々である。

その圧倒的に大勢の人々の無言の労働と努力によって

この国はかろうじて、国として成立している。

その圧倒的多数の、無名の人々こそ、

私の地続きであり、

同じ時代をいきる同胞である。

そこをしっかりと目を凝らして見ていないと、

世の中は絶望だらけにしか見えない。

そして私自身への戒めとしてあるのは、

人間は、小さい事で争う。

他人のどうでもいいことが、 

めざわりになる。 

しかし本当は、

そんな人々も、ほとんどが

まじめに生きている。

そこに、全幅の信頼をおかねば、と思うのです。

昨日書いたように、 

歴史の中では滅んだ民族や国家がある。

しかしそれでも人類が生き延びているのは、

考える葦である人間の前頭葉が働き、

常に社会の一隅にいる市民の良心

が、

悪を洗浄する機能を持っていたからだと私は考える。

ともすると悪の方に目が行きがちになる私は、

ハッとしてその事に気づき、襟を正した。

最後に手厳しい事を書く。

脳も体もまことにロジックである。

つまり、

脳も身体も合理性(理屈があう事)の中にある。

だから、少しでもボタンを掛け違えたり、

不義や悪に走ると、

かならずそのツケがまわってくる。

つまり、バチが当たる、って事です。

ただ悪もいっ時は栄えるのである、だが、

生きることは、そうは甘くはない、って事です。

炎天下、庭の隅で咲いていたシクラメンです

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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