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◆「どこかに美しい村はないか」そのシュールなる世界。

テレビ放送が始まって間もなく中学生になった私は、

テレビで放映される映画に夢中になった。

特にフランス映画にかぶれ、中学生なのにラジオでシャンソンを聞く、かなりませくれた中学生でありましたよ。

中学から高校にかけて見た映画、

とくにフランス映画で、印象的に覚えているのは

・巴里の空の下セーヌはながれる

・天井桟敷の人々

・オルフェ

・望郷、

などなどで、

評判の高い「望郷」などは、若い私には大人の世界でしかなく、ちっともわからなかったが、

「巴里の空の下、セーヌは流れる」は、

ものごとは巡り巡って、人生の輪廻が織りなすロマンや詩情に、なんとなく感動した。

もう一つ、心がゆすぶられたのが、

「天井桟敷の人々」で、ジャン・ルイ・バローのパントマイムや、

群衆の渦にまきこまれながら男女が離されて行く場面は、まだ鮮明に覚えている。

この映画に連動するかのような

シャンソンの「群衆」は、亡くなった友人を慰霊するコンサートで歌った。

もう一つ私の脳裏に、いつもはりついていたのは

アポリネールの詩「マリー」で、

「マリー」は少女の私と重なった。

こうして書いていくと、私とってのシュールとは何が見えてくる。

つまり私にとってシュールとは、

人間のドロドロを超えたところにある、

あっけらかんと澄みきった感覚と感性の世界であり、

いまもそこに憧れている。

それは空から俯瞰して人間界をみている目であり、

あれかこれか、ではなく

あれもこれをも、

人間界でおきるドラマを窓越しに覗きこむ月のように、また、

童話「幸福の王子」のように、

人間の不条理も、虚無も、悲しみも嘆きも、喜びも無言でみている、私がいる。

これはずっと私の願望であり、

感情に襲われる度に、

どうしたら感情から逃れられるかを、探し続けた。

ただじっと目を凝らして、

人間世界を見ている、そこ行きつきたいと、悩み続けて生きてきた。

そして、

もし、感情を残すとしたら

それは、

愛だけだろうと。

その事は、多分ドストエフスキーや漱石と一致する。

昨日書いた岡本太郎のことば、

人間の根源的幸せを探せ、ということは、

私が尊敬する、イエスも仏陀も、

良寛も道元も、勿論漱石も、

おそらく画家ワイエスもが、

探していた眼差しだろう。

いつか、私もシュールな絵画のような映画を作りたいと考えていた。

誰も作らなかった、シュールなドキュメント映画を創りたい。

そして見つけたのが遠野の田園であり、

児玉房子さんのガラス絵であった。

ガラス絵は、絵の中の生々しい感情が、ガラスという無機質の中で透過され、

人々の暮らしや生き様が、シュールな光世界へと、昇華されている。

映画を撮るにあたっては、

最初は別の監督と能勢カメラマとプロデューサー私のトリオで撮るつもりであったが、その監督に断られた。

私は諦めかけたが、

能勢さんの、やりましょうという一言で、撮影が始まった。

もともと能勢さんの作品は、どちらかというとシュールな映像であり、時々、能勢さん自身の人の良さからくるヒユーマンなことがなくはないが、しかし

遠野への取材と下撮りの往復車中での話し合いで、

これはいけると、確信した。

そして

能勢広監督撮影で出来上がった映画は、まさに、

美しい映像と、田園の詩情と善良なる人々のシュールな映像であり、そこには一点の通俗性も無い。

ストーリートミュージシャンのR akiraさんの音楽は、淡い郷愁と温かさで、見る人を包み込む。

この映画は、

ドキュメンタリー映画でありながら、

いわゆるドキュメンタリー映画でセオリー化している、

しつこいヒユーマンドラマでもなく、ジャーナリスティックな問題を突きつける事もない。

あるのは人間を突き抜けた、大いなる楽天性と、人間讃歌だ。

シュールだから説明もしない。

ただ感性から感性へと、映像が渡される。

だから、

画面はサラサラと小川のように流れ、

人々は田園にとけ込みながら、働き生きる。

岡本太郎のいう通り、高度の科学テクノロジーも、溢れる物質文化も、

先進的経済も未来を幸せにするものではない。

根源的な人間の幸せとは、

おおいなる自然と共に、

人が身体を使って働き、

賢い知恵で、

おだやかに生きる中にこそある。

これを書きながら、

これまで、ずっと私の中のさまざまな点が一本の線として繋がった。

香本さんの返信にも書いたが

この映画をシュールと分かる人がいるかどうか分からない。

もし、わかる人がいたら、おそらくその人も、

通俗的な人間の欲と感情を超え、

しかし人間を愛し、

その醒めた目は、

あの空の一点から、人間を見ようとしているのだと思います。

最後に、マリーの詩をおく。 

    マリー 

   ギョーム・アポリネール

少女よ、君はそこで踊っていた

やがておばあさんが踊るだろうか

はねまわるマクロット・ダンス

鐘がもうじき鳴り渡るだろう

マリーよ 一体いつ帰ってくるのか

仮面の人たちが黙っている

音楽はあんなに遠く

空の奥からやってくるようだ

そうだぼくはあなたを愛したい けれどもそれはやっとのこと

してぼくの不幸は甘やかだ

羊は雲のなかに去って行く

羊の毛の房 銀の房

兵士が通りすぎ

どうして一つの心さえ所有できないのか

あの変わりやすい変わりやすい心 そしてぼくにはわからない

どうしてぼくが知ろう おまえの髪がどこへ行ってしまうか

泡立つ海のようにちぢれた髪が

どうして知ろう おまえの髪がどこへ行ってしまうか

ぼくたちの誓いがまきちらす

秋の葉のおまえの手が

ぼくはセーヌのほとりを歩いていった

古い一冊の本をかかえて

川はぼくの苦しみに似ている

流れ流れてつきることを知らない

週は一体 いつ終わるのだろう

        飯島耕一訳

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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