今,大江健三郎と江藤淳の対談を読んでいるのだけれど。
大江の作品「個人的な体験」を巡って拗れに拗れている、
まだそれん読み途中なのだが。
大江作品の優れているところでもありかつ難解なのは、
大江自身が見てある結論に達したかと思うと、またそこから大江は、
別の角度からそれを検証しようとする。
つまり何度も何度も,こうかもしれないがしかし、
こちらからみればこうかもしれない,という風に,どんどん考察を深化させていく。
大江にとって結論とか結末ではなく、
むしろ答えを求めもがき続ける事が人間なのであり、
それを書くのが文学である,という認識があるのではないか。
そこに彼の文学にたいする極めて真摯な姿勢があり故に、
難解になる。
例えば、「人生の親戚」という作品では、
先天的障害のある長男と、事故で障害者となった次男が長男の自殺を幇助し二人ともが自殺してしまう。
そしてその母親は、
それをどう理解していいのか、簡単には受け入れがたいそれをもがき続ける。
どうしても答えが出ない中で彼女はもがき続け最終的には乳癌で命が尽きる。
つまり大江はもしかしなら〇〇かもしれないが、それでもそれは△△かもしれないと、答えを出せず母親がもがき続けるさまを描く。
そして大江のその検証作業の中で淵が更に深淵へと深まる中、
読者の中に、なんとも例え難い無明の光が見てくる。
その作業、つまり大江が書いていく小説の作業は、おそらく三島や江藤淳には理解できないかもしれない。
それは大江の文学に対する誠実さと使命がそうさせるのであり、
また読者も辛抱強く彼の問いに付き合わなければならない。
それは、理念や倫理や思想,その他の人間の知の世界を全て取っ払って,
漸く微かに見えてくる人間の裸像のように私は思うが。
まだ読み途中ながら、どうしても噛み合わない江藤淳と大江健三郎の対談で、
兎に角にも私の頭に浮かんだものを今、
書いておきます。

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