なぜ偶像化、或いは美化されている人物達のそれをはぎ取り、実像へと迫るか?は。
そうしないと,彼らのほんとうの悲しみや苦悩や,そしてそこから脱出していく人間としてのダイナミズムが見えないからです。
私の最初の作品「原色の女」を書いた動機は高村光太郎の「智恵子抄」を読んだ時の違和感です。
同じ女として、こんなに聖女のような女性がいるのだろうか?という違和感です。
それで智恵子の写真を見た時、
明らかに肉身的な智恵子を感じ、
次に室生犀星が書いた智恵子像を読み、そこにはかなり嫌な女としての智恵子がいました。
それで、
あーこんなに美化されてしまった女性とはどういうものか,ということで、片っ端から智恵子のことを調べ始めたと言う訳です。
そしたらね、もー個性的溢れる智恵子さんが出てきました…笑!
明治のあの時代に,殆ど自分の思い通りに生きている智恵子さんです。
少し高慢で、プライド高く,猛烈にオシャレで、どこにいても目立つ智恵子さんです。
太平洋洋画会という画塾では、授業が終わると、サッと長めのマントをひるがえして、
周囲の男子学生の好奇の目を尻目に、
颯爽と教室を後にする智恵子さんです。
カッコイイでしょう!
そんな智恵子さんが,なぜ光太郎との結婚後に精神的な病理になっていったか。
智恵子さんの病理統合失調症は、
もしかしたら遺伝かもしれないので、必ずしも光太郎との結婚が原因とは言えません。
しかし確実に言える事は、
彼女が発病後に作り出した紙絵の世界を見ると,明らか才能が溢れており、
もしかしたらこの才能を光太郎との結婚生活では、
彼女は抑圧していたかもしれないなぁーと私は思いました。
あの自信家の智恵子さんがなぜ自分を抑えこんだのか、と。
そこにはやっぱり光太郎の影があると思います。
宮沢賢治賢治の場合も同じで「銀河鉄道の夜」を読んだ時のあの暗さと不気味さの裏にある賢治の絶望を
なぜ世の中一般は、
それを明るいファンタジー童話のように扱うのか、という疑問です。
それで童話を片っ端から読みましたら、不思議なことに、
ある時から童話が妙に辛気臭くなってしまいます。
初期の童話は面白く文章がかなり自由奔放です。
賢治のお茶目なチャイルドがまだ
そこにはいきているのです。
そして意地悪な賢治もいますし、偉そうな賢治もそのまま出ており、
それがスパイスになっていきもの達をイキイキさせています。
それがある時からだんだんお行儀の良い童話になり、救世主になった賢治が正座し始めます。
最後はもうお葬式のような銀河鉄道の物語になってしまいました。
いったい賢治の真実はどこにあるんだ…?
でも、調べてみるとでてくるわ,出てくるわ、これも生身の個性あふれる賢治ですよ。
ストイックどころか、
文才に恵まれ、最先端の流行を気取る文化人の賢治です。
まー花巻,盛岡ではトップクラスをゆく、
かなり目立った存在だったでしょうねー。
その賢治がなぜ失速していったか?
実はそこを描かない限り、
賢治がどのように旧弊的世の中と戦い,煩悶し、
そして傷ついていったかが、見えて来ません。
賢治のほんとうの戦いと絶望と、
そして最後、死の寸前の、
突き抜けるような賢治の覚醒が
全部安っぽい美談で、帳消しにされています。
例えば私達だって、苦労しながら頑張っているのに、
他人から簡単にいい人に括られてはたまらんでしょう。
しかも、生まれつきのよう言われると、
あの人生の格闘と努力はどうしてくれる,と言いたくなります。
他人人生を幻想化し、
軽々しく扱ってはいけないのです。
一葉さんも、調べれば調べるほど、どこか変人でもあり、姐御肌でも有ります。
彼女は24歳で死にますが、
苦労の連続であり、たいした女性ですよ。
今朝ドラで女性差別の話をやっていますが、
もしかしたら日本で最初に女性差別を描いたのは一葉さんかもしれません。このことは後日書きます。
彼らの実像に迫れば迫るほど、冒頭に書いたように彼らの嘆きや絶望が見えてきます。
そしてそれと同時に彼らが、
その人生とどう格闘したかが見えてきます。
そして彼らも私達と同じ様な状況の中、
満身創痍で生き抜いたことも
わかってきます。
彼等を幻想化せず、
しっかりとその生,その人生を
見渡してこそ、
その真の素晴らしさがわかると
私は考えます。
そして同じように、
皆さんの人生も、
私達の人生もが、
素晴らしいのですよ

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