それは私が39歳の時におこりました。
当時私は宮沢賢治を調べる為に花巻に行きました。
高村山荘は、詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦後住んだ花巻奥の掘立て小屋です。
高村光太郎は戦争を讃美推進する詩を百数十遍も書いており、戦後すぐに東京へは戻らず、その懺悔とも思えるその小屋で赤貧の7年間を暮らしました。
彼に興味を覚えた私は、
帰ってからさっそく智恵子抄を読みました。しかし、
彼の妻であり、
聖女化されている智恵子さんに、
かなりの違和感を持ちました。
その頃の私は,明治、大正の女達,特に青鞜社の女性たちのことも調べていましたから,尚更、そう思いました。
その違和感を憲雄氏の友人である出版社の編集者に話したところ、面白い,とにかく原稿30枚書いて送るようにいわれました。
そして書きだしたらね…。
空から(天から)言葉が降ってくるんですよ。
次から次から落ちてくる言葉を
アッという間に30枚書いて送りましたら、即出版が決まりました。
それからが凄かった!
まるで自動書記のように,言葉が降ってくる。
更に取材すれば奇跡のように素材やデータが入ってきたり、
思いがけない智恵子さんの関係者との 出会いが次々に起こりました。
とどめは、夏休みに偶然と泊まった五色沼のペンションの名前が「森のゴリラ」で、
実は
高村光太郎の詩から名前をつけた,というんです…‼︎‼︎
勿論私はそんなことなど念頭にはなく、そこに泊まったんですが…⁉︎
あー何から何まで高村智恵子だぁ〜という毎日でした。
天から降ってくる言葉は、原稿用紙に書き留めるのももどかしいくらい、次から次から、頭の中に落ちてえんぴつがついていけません!
憲雄氏もびっくりして、
私が書いている時は、
さすがに家事や子供の面倒をみてくれました。
原稿は殆ど推敲しないで、もどかしいくらいの勢いで。
アッという間に原稿300枚を書き上げました。
その後編集者の手が入り、300枚の書き直しを2回、
しかも2回目の書き直しは、
智恵子の独白として主語で書いてほしい,と言われ、
それもアッと言う間に書き上げました。
ただ最後の迫りだけが,ちょっと弱かったかなぁ〜。
それはね当時高村家の権力が強くて、
出版社もその辺を忖度していたからね、
光太郎を批判するようなことを、
ズバッとは書けないという事実がありました。
こうして私の処女作「原色の女」〜もうひとつの智恵子抄〜が、出来上がりました。
◯
それはまさに、デティールの言葉が
私の頭中で、シンフォニーのように立ち上がり、
フィナーレへと目指して、
爆進していきました。
ちょっと話がずれますけど、宮沢賢治だって、
宮沢家と筑摩書店の圧力で、神格化された賢治に不利なことは書けなかったはずです。
逆にそのことで,人間宮沢賢治がかなり見えなくなってしまいましたね。残念です。
話を元に戻すと、とにかく雨アラレの如く降ってくる言葉を一心に原稿に書く私を揶揄して、
憲雄氏は青森のイタコのようだと言い、
イタコ文学と名づけました…失礼な…
。
私自身もびっくりしましたが、しかし、その後、
心理学や脳科学を独学するうちに、
これこそ、脳の高次元の働き(現象)であると、確信しました。
前回書いたように、
脳の中には自分が溜め込んだ膨大なデータと知識があります。
そのデータと知識を脳自身が、
本人意図する目的に向かって
編集していきます。
これが脳の凄いことなんですよ。
私の場合も、どうしても、実在の智恵子さんのエピソードや事実と、
高村光太郎の「智恵子抄」との間の
齟齬,違和感が埋まらない。
というそれが起点となり、
そこを埋めるために、
私の脳にバンキングしてあるデータや知識,経験をベースに、
脳が全力をあげて、
私の頭中を捜索し、言葉にして、
落としてくれたと、思います。
私の脳は、その遺伝子世界、経験と体験、そして仕入れた沢山の知識の山が、
外から入ってくる認識に
違和感を感じると、
それを見逃さないのです。
つまり、自分をごまかさないそれが、
大きな原動エンジンになってくれたと思います。
この経験から言いますと、
イノベーションの種は私達の脳の中にあります。
脳というのは、マンネリを嫌い、それと同時に、
自分が感心を持つことだけに向かって働きます。
それが凄いのです。
自分が探したいもの、見つけたいものを追求すること。
その情熱を失わず、高い集中力を持って前へと爆進すること。
そして最も大事なのは、
自分の中に起きる違和感を,ごまかさないこと。
このごまかさないは、憲雄氏と私の共通項だったと思います。
そして、そういう
純粋な人々の集まりこそが
イノベーション(奇跡)を起こすエンジンになっていくのだと、
私は思います。

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