昨日トランプ氏が、イランへの爆弾投下と広島、長崎への原爆投下を同じ次元で発言しました。
もうお分かりのように、
西洋人と私達の感性や思想は、月とスッポンほど違うのです。
なぜ漱石が西洋文化に拒否反応をしたか、の、本質的問題を書いています。
そこには、もう私達が気づかなければならない、西洋人との決定的違いがあります。
このシリーズ最後までお読みいただければ幸いです。
◯
漱石の預言4、自分を突きとめる漱石の文学!
文学的な観点からいうと、
明治になってそれまでの日本には無かった「個」の概念が入ってきます。
それ迄の日本人の自我には「個」、
いわゆる「私」という独立した概念がありませんでした。
つまり、現代の私たちであれば当然の自我意識としての私が、無かったのです。
いわゆる、私の人生、私の恋愛、私のという、確立した私意識ではなく、
常に所属集団や階級、また周囲の環境との
関係性の中における「私」でしか、ありませんでした。
武士の私、町人としての私、とか、
何藩の私とか…なんとか村の私とか…。
ところが,いよいよ日本人も個としての「私」に目覚め始めます。
それに敏感に反応したのが、いわゆる文学界の人々です。
私の人生、私の生き方、私の恋愛,私の職業、私の思い、私の生活…etc!
それぞれが書き始めます。
そしてそれらの人々は、大雑把に大きく分けて、
二つの潮流へと分かれていきました。
その潮流について詳しく書くと、
まー大変なことになるので、
皆さんにわかりやすく
私の言葉で省略してお話しすると、
一つは、自分探しの文学です。
まー坪内逍遥や二葉亭四迷や更には嶋崎藤村や田山花袋のような自然主義文学などなどです。
もう一つが、
自分を突き止めようとする文学です。
もっというと、人間の本質を突き止めようという文学です。
夏目漱石や芥川龍之介などがそうですが、
樋口一葉も、どちらかというと、こちらかなぁ。
圧倒的に多いのは、自分探しの文学です。
それは現代においても、自分探しの方が圧倒的に多いです。
自分探しの文学は、
男女の愛憎や苦悩や、家族や社会への思うや感情そのものに、焦点をあて、
それらの形をバリエーションして、物語にしていきます。
反対に自分を突き止めていく文学は、
自分に厳しくメスをいれながら、
物語の奥にある、深層心理や、
人間の本質とは何かの、
普遍性を追及していきます。
自分を突き止めていく作業はとても苦しいです。
それは、ある種の高い知識や鋭い感覚がないとなかなか難しいです。
自分をごまかさず、自分の意識,無意識をはぎ取り分析していくのですから、
芥川龍之介は,とうとう力尽きて自死してしまいましたねー。
でも、彼も凄い!
漱石もその追及の手を緩めませんでした。
一葉の場合は,彼女の中の怒り、
つまり女として理不尽な扱いを受ける怒りが、
女とは人間として何かを、追及していきました。
その筆先はまるで短刀のようです。
残念なことに、その激しい一葉の姿はあまり知られていませんが。
漱石は、自己解体をしながらも、
儒学や漢学や仏教哲学がありましたから、
それらを
さまざまに止揚しながら、
彼自身の内実を成熟させていきました。
スケールが大きいです。
その漱石が辿りついたのは、西洋思想ではなく、東洋思想哲学です。
つまり漱石は、東洋思想,哲学の方が、深く、かつ本質的だと気づいたのです。
実は、私もそう思います。
西洋思想に比べて東洋思想は、そのスケールにおいて、
次元がちがいます。
確かに西洋思想,哲学は人間を相対化していきますが、
東洋思想,哲学は、世界全体を相対化していきます。
人間ばかりではなく、自然の草木や宇宙の概念まで相対化していきます。
世界や宇宙現象までが相対化される中の、
その小さなひとつの現象としての人間がある、のです。
キリスト教聖書の中では、
ヤーウェばこの世での
唯一の絶対的な神であり、
人間はその神が設定した世界の中で生かされていると説きます。
聖書の素晴らしさはイエスが
誰にでも分かりやすく教えを説いて行くところです。
そこには人間への愛も分かりやすく説かれています。
それに比べて東洋思想や仏教はわかりにくい。
なぜなら、儒教も仏教も基本的には現象学ですから易しくありません。
しかし私が凄いなぁーと思うのは、
その表面の現象から更に奥へと突き進んでいくと、そこに現れてくるのは、素晴らしい
覚醒の世界です。
それをどう言葉で表していいのか分からないので、
社会学者の故見田宗介先生の言葉を借ります。
「夢から醒める、ということが、
感動の解体であるばかりではなく、
いっそう深い感動の獲得でもある。」
夢(幻想)が消え去ったそこには、
むしろ冷えびえとした人間の現実が見えてきます。
その最も原型的な、
無力で脆弱な厳しい人間の姿こそが、
普遍的人間の姿であり、
それに気づいた時、
幻想とは違う深い感動が生まれてきます。
ちょっと難しいね。
おそらく漱石も、それが見えてきたと,思います。
その小さくて,脆弱な人間が,必死に生きている、
そこにこそ、人生の意味と価値がある。
そして自分も他者も、
その共生の中を、生きていることに
感動するのです。
それは漱石最晩年の作品「硝子戸の中」をお読みになれば、
わかります。

コメント