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日本の現代文学は、大江健三郎どまりで、村上春樹になるともう読まない!

東京大学の立花ゼミの学生達が取材し編集した本「二十歳の君へ」を読んでいる。(2011年発行)

と言っても、同時掲載されている著名人ヘのインタビューには、全く興味がないので、

そこはすっ飛ばし、

立花さんが若者達へ向けた「特別講義」の150ページのみを読んでいる。

彼が何を若者に伝えたかったを知りたいと思って読んでいる。

深い洞察と知性に共感し、同感し、尊敬し、興味深く読んでいる中、

あゝ、立花さん、貴方もそうであったのかと、いう文があった。

それは、文学について、 

「外国文学の代表作は、古典から現代文学まで、ほとんど全部読んでいます。

ただ、日本の現代文学は、大江健三郎どまりですね。

村上春樹になるともう読んでいない。

社会人になってから小説を読むのをやめたんです。

小説はくだらないと思うようになったんですね。」と言う言葉で、

私もじつは同じであるから、ちょっとびっくり、そして、あぁ同士がいた、と安心した。

いつからか、日本の小説のスケールがチマチマと小さくなり、

自分の身辺のあれこれや男と女がどうしたこうした、

日常のあれこれと言うことばかりでくだらないなあと、私も思うようになった。

つまり、感情を中心としたあれこれで、

私は辺縁系文学と読んでいる。

村上春樹のものにも、何度か挑戦したが、

途中でもう、文に目が入らなくなりやめた。

いつも自分は世の中とはちがうなあ、と言う孤立感があったが、

立花さんもそうなら、私の直観も、それで良いのだな、と納得した。

ただ数年前だけどモーパッサンを読み直して、がっかりしたから、

これも歳のせいかもしれない。

この本ではないが大江さんと立花さんの対談を読んだ時、

大江さんの世界を把握する仕方がとても人間的であり温かであるが、

一方現代サイエンスからの把握からすると、ちょっとちがうかなあ、と私は思った。

サイエンスの目は、ヒューマニズム幻想を裸にしてしまうが、 

つまりサイエンスで分析された人間の姿は、

感情などのヒューマンなものが入る余地がない。冷徹そのものである。

一方では、

人間の脳が獲得してきた良心をはじめとする,

高邁な理性と理念に反応する前頭前野世界があり、

それは人類史における人間の圧倒的勝利であると、私は考える。

すべてを相対化し、すべてを全方向つまり、

社会、科学、脳科学、文学、芸術など、すべてを視野にいれて検証しようてする

立花氏の視点と示唆が、若者に響のか?ともかく読み進み、

何か大切なものを獲得できたら良いなぁと、思う。

続きを読みましょう!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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