●美しい日本、三島由紀夫、大島渚、小川紳介の世界より、その2大島渚!

困ったことに、人間の脳は常に幻想を追いかける。 

つまり人間は、自分に都合のよい夢の世界を作り続けながら今を生きるのである。

そういう観点から見ると、女は閉経後には男への幻想も冷めていくが

男は死ぬまで女への幻想を追い続けなければならない。

大島はその性幻想を突きつめ芸術化しようとしたと私には思える。

彼の映画の背後には、日本の官能の美の絢爛たる日本文化が

クジャクの羽根のように広がっている。

そういう大島の教養の世界があり、

日本的知と痴とが入り乱れる美の模様があったと思います。

大島も三島に負けず、命がけで映画を作ったと思う。

ほんとに正直にいうと、私は大島作品から逃げたなる。

それくらい難しいし、シュールだし、面倒くさいし、

彼の精緻な観念世界の切れ端が

鋭い刀の切っ先のように投げつけられたくるのが辛い。

しかし彼の世界の底流にあるのは、なにか人間臭い血が流れており、

それは案外温かいきがする。

私が好きなのは「少年」という映画で、

面白いなあ~と思ったのは「儀式」や「新宿泥棒日記」や「日本の夜と霧」で、

最初の頃の大島には、この胸糞悪い政治や社会への純粋な批判が初々しいほどあり、

私の中にも密かに連帯するものがあった。

それに尖っていた大島渚は、

「俺のことなんか、そう、やすやすと分かってたまるか」というような矜持をもっいたと思うし、

その一方で常に新しい感性世界を掴もうとしていた。

大島作品には一切のマンネリがなく、いつも初々しいソリッドさがある。

そういう大島はほんとに眩しいかった。

しかしただその頂上ともいえる「愛のコリーダ」について女の目から私見を述べると、

もう、圧倒されるような迫力であり、

今まで誰もが作りえなかった性の幻想世界ではあるが、

しかし私はもう一度見たいとは思わない。

なぜか分からないが、どこか男の女幻想と性幻想がぐいぐい押してくる中、

こんなことを書くと大島ファンに殺されるかもしれないが、

それがなまなましくて、私は主人公の女にはとても共感できず、

むしろ小便くさい、と思ったのが、正直な感想です(すみません…苦笑!)

主人公の女が稚拙すぎる。

どういう訳か男は、こういう女が好きらしい。

大島渚よ、おまえもか…。

そう言う意味では、大島渚と言えども私から見ると、凡庸だです。

つまり大島は私の眼には、スケールの大きい、チョー観念男でもある。

そういう自分を自覚してたのか、

その観念の崇高さがどこかで軽薄を目指しているようなとこもあり、

そういうところに、熟さない少年大島をも感じる。

さらに「戦場のメリークリスマス」となるともう、

女の私には分からない。

なにか言葉にならない男たちの精神が行き交う。

何が男の美学なのか、しかし音楽は或る種の滑稽さでそれを包んでいるし。

戦場はまるで男どもの危うい遊び場の様でもあり、

そしてこんなふうに戦争を語られてもなあ~と女の私は思う。

もしかしたら私は映画オンチかもしれませんね・・・トホホ!

ただ面白いのは、結局は大島監督もその観念の世界では、

知性と教養の日本文化の分子の世界であり、

しかしその絵巻世界を、ビートたけしの原軍曹というおそらく分母世界(農民世界)の出身者の

圧倒的な存在感で映画を引き締めたのではないかという事です。

つまり大島渚と言えどもそれは、ある種三島と相通じる貴族文化、すなわち分子の世界では

なかったかということ。

※分子とは、分数の比喩をもって、上層の世界を分子という比喩で指しました。

私は三島由紀夫に生きていて、「愛のコリーダ」と「戦場のメリークリスマス」を見て貰いたかったと思う。

三島は国家へと斬りこみ大島は映画芸術へと斬りこんだ。

そしてそしてこの三島と大島の世界の対極にいるのが小川紳介です。

小川紳介の映画を、左翼イデオロギーのシンボル映画のように言う者もいるが、

私の眼には、彼はそういうチャチな視点ではなく、

彼は日本の原風景、つまり分母の世界に斬りこんだのだと思います。次にその小川を書きます。         

                            つづく

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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