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◆シリーズ正岡子規 その1、いい歳をして胸がときめいた!

71歳のいい歳をして胸がときめいた。

誰に、正岡子規にです。

ま、71歳だから発情してときめいたのではありません…笑!

男に対するそういう発情ホルモンなどは

もうとっくに干あがっていますからね!!・・・大笑い!!

そうではなく、人間としても、男としても、

なんてダンディなのかと思ったのです。

ダンディといっても、オシャレでもなく、

その容姿も、むしろダサい部類に入るかもしれませんが、

その・近代性と・時代を見据える慧眼、

時代がどう変遷しようと、・一本の気骨を有して生きるという

ダンディーさです。

しなやかな気骨をもつダンディーさです。

歳を経れば経るほど、

人間を包括的に包み込もうという私があり、

人々を見る私の視線は優しくなりました。

しかし、その一方では、厳しく人間を選別する眼も

私に生まれて来ています。

つまり、もうあきらめて人間を見ている眼と

それでも、その人間が深い知性と考察力を有しているかどうかを

見究め、

そこから共生と学びを得ようとする私です。

私の中には、高次のもの、高邁な精神を持つ人を

いまだ求めている私がいます。探しているというのかな~。

高次、高邁な人間から更に学びたいという、私がいるのです。

そういう私が子規の「墨汁一滴」を読みながら、

子規にときめいた訳です…笑!

司馬遼太郎さんの著書「この国のかたち」四の中に

「自己を正確に認識するというリアリズムは、

ほとんどの場合、自分が手負いになる。それには

大変な勇気がいる。」という一文があります。

自分とはどんな人間であるか、

自分はいかなる内容をもって生きているかを知るには。

自分が自分に抱いている幻想がぺシャンコなる、

という傷を経なければ、手に入りません。

自分という人間の底の浅さや未熟さや傲慢さが

赤裸々に見えた時、

それはまさに

自分が地べたにたたきつけられるという

大いなる挫折が起きます。

しかしそれこそが

自分という人間のリアリズム(実像)が見えてくる条件でも

あるのです。

※今でいうなら、マウントが粉々に踏みつぶされるとでもいうのかな~。

ただ、そこからは別の感動が生まれます。

幻想の自分がへし折れたその地点から、

再び生きなおしていく時にこそ

素晴らしい自分と、

自分のリアリティーが立ちあがっていきます。

しかし、残念ですが

そのリアリティーを獲得できる人間は

ほんとうに些少です。

なぜなら殆ど人は、

そういう自分を見ないようにして生きているからね。

しかし

子規は、その立ち位置を得てたように思います。

得ていたからこそ、

それまでの日本、江戸時代の日本とはまったく異なる

新しい明治という時代を見据え、

そこに自分のリアリズムを持ちこもうとしました。

それが子規における俳句の写実ということだと

思います。

そして、その一方で

自分が何に依拠していきるかの問いがあり、

そこに彼の一本の気骨とこころざしを持ちました。

それは死の寸前まで、維持し持続され、

自分の死を見据えながら「墨汁一滴」が書かれたと思います。

子規の目において、

これまでの時代をどう総括するか、

さらに新しい明治の時代に、何が必要で、

どう生きたらいいかの選別を、書き綴ったと思います。

そこには、厳しい選眼と論評と

もし彼が生き続けることはできたら

何を成し遂げたかったかが淡々とかいてあり、

私はそれを読み取るのみです。

今時代は大きく変化しています。

江戸時代から明治へと時代は変化した時のように

IT,とAIの時代という

これまで誰も体験もしなかった世界で、

私たちはいきている。

しかし、どれほどの人が、

これからの時代をどう生きたらいいかを

考察しえているのだろうか。

「墨汁一滴」を読みながら、

或る種の風が私の中を通り抜けていく。

その風に

私の「こころざし」(生き方)を問われる。

私が何に依拠してこの時代を生きるかを

残り少ない私の時間、

何を大黒柱として果てていくか。

遠く子規を眺めながら考え続けるばかりです。

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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