やっとこの歳になって
この世というものを突き放して
遠くから眺めることができるようになった。
具体的にいうと、この世に起きる様々なことを
自分とは違う星の出来事のように
眺めることができるようになったと
いうことです。
そうして眺めていると
この世=浮き世は、かなりオモロイ!!
私は、ますます子規にのみりこみながらも、
子規と漱石のやり取りが面白い!
眼病を患った漱石が子規に、
この頃は何となく浮き世が嫌になった・・・という
ちょっと愚痴めいた手紙をだしている。
それに対して子規はまったく取り合わず、
なんだと、女の祟りで眼が悪くなったと、笑わしやがら~!と
返している。
漱石は愚直に悩み、子規は斜めから世の中をみて漱石を
茶化している。
子規からすると、漱石の悩みは
この生真面目もんの、色男がぁ~、とでもいいましょうかね~。
漱石はダンディーで、子規はブサイクですから・・・・笑い!
私はこの二人のやりとりが、羨ましい。
漱石と子規との有名なエピソードに
二人が散歩にでたら、
漱石は稲のことを知らなかったというのが
あります。
二人の散歩道の途中で、
そこあった草からお米がとれる、ということを、
漱石が知らなかったと、
子規が漱石を揶揄しながら、
たまには田舎へ行ったほうがいいよ、と
書いているのです。
子規が亡くなった後に
今度は芥川龍之介が、それは本当か、と漱石に質します。
漱石は、
なに、稲のことは知っていさ、
でもその田んぼに生えていた草が稲で、
それからお米がとれる、ということを知らなかっただけさ…と
いう風に答えます。
つまり知識としては知っていたが、
実物を知らなかったということでしょうかね~。
漱石の苦笑いが見えるようです。
また龍之介によると、
子規は漱石の俳句や漢詩にいつも批評を加えていて
そういう子規が苦々しく、
漱石は腹を立てていたらしい。
そしてある時、英語の苦手な子規に、
わざと英文をつくって見せると、
子規はすかさずそれに、イケしゃーしゃーと
ヴェリイ・グッド、と書いたそうです…大笑!
これも龍之介が漱石から聞いた、
子規への思い出話です。
子規は自分では英語が苦手だと思っていたようです。
それでも英書を原語で読んでいたらしいから、
もう知性のレベルが違います。
漱石は真っ向から自分と格闘し悩んで小説を書きます。
その姿に私は大いに感化されました。
一方子規は、結核性のカリエスに冒され、
余命を宣告された、寝たきりの病辱の中から
世の中を、外側から眺めながらも、
死の寸前まで愚直に書き続けました。
その姿に私は勇気づけられ、もう好きでたまりません。
ふたりともが
惚れ惚れとする男たちです。
人間はこころざし一本さ。
それは、
いつも、すがすがしく、爽やかでなければいけない。
それには、
いつも自分を見つめ、
自分の自我を叩き、
自分の感情を制する勇気の中を生きないと、
汚れちまう。
おそらくね、
漱石も子規も、
その人生をどう締めくくるかを、遠く、近くに
いつもどこか
頭の角で考えていたと
思います。

コメント