ドキュメンタリー映画の多くは、人間や社会の不条理を訴えた作品が多いです。
多いというより、ほとんどです。まあ、それはそれとして
大きな意義や意味もあると思います。
が。
一方でそこにばかり感情移入や価値や意味が特化されすぎていて、
ドキュメンタリーの本来の
●記録性や
映像が持つ
●多彩で多様な可能性については評価の視点が低いように思います。
それで今日はちょっと人間の不条理について書いてみます。
極端にいえば、社会や人間の不条理は無くなりません。
なぜなら、人間の<存在>そのものが不条理なのですから。
地球全員の人生が不条理であり、
なぜそうなるかの一因は、
人間の脳が持つ意識の二重性や自己矛盾があるからです。
人間は人類史以来ずっとそうであり、
その証拠に古代「古事記」のはじまりには、
しっかりとそれが記述されています…苦笑!
「古事記」によれば、
人間の始祖である男女・イザナキノミコトと・イザナミノミコトが結ばれて
生まれたのが「ヒルコ(水蛭子)です。
しかしヒルコは育たず、葦の舟に乗せて流し捨てられます。
そしてなぜヒルコが生まれたかというと
出会っ時に最初に女のイザナミノミコトが「あゝいい男ね~」と唱えたからだと
言うのです。
つまり男ではなく、女がリードしたことが間違いで、だから
不完全な子供ヒルコが生まれた、と言うのです。
何という不条理!!
これを心理分析すると、古代においても、実は女のほうが優れて,尚、強かった!
だからこそ、男は女を抑え込むために、男が優先されることを明示したと
私は分析します…笑!
ちなみこれは余談ですが、天地創造で表れた最初の神である三神、
アメノミナカヌシ、タカヌスヒ、カミムスヒは、
いずれも・ジェンダーフリーです・・・笑!!
そもそも権力、権威、社会的ヒエラルキーの発生こそが、
不可避的に不可避的に不条理を生み出すのです。
話を元も戻すと、つまり人間や社会の不条理は延々と続くのです。
そこには、なぜ不条理がおきるか、の根本原理が解決がされていないからです。
つまりその根底にあるのは、個々の人間の中の不条理であり、
その個々の人間が、
自分の不条理を解決していないからだと私は考えます。
たとえば、
NHKの朝どら「おちょやん」は見事に自分に起きる不条理を乗り越えていきましたね。
どんな悲惨な環境であり、どれほど不幸な条件下においても、
それを乗り越えていく人間と、そこで逃げる人間とで、道は二極に別れていきます。
そこには社会がどうであれ、環境や置かれた条件がどうであれ、
自分を貫き、自分の弱さと戦う人間がおり、
そういう人たちは自己アイデンティティが大黒柱のように立っていくのです。
いや、立てながらいきていくのかなあ~。
そういう●人間の根源的な生命力に対する信頼ができていれば、
映画の作り方も格段に違ってくると思います。
悲惨や不条理を訴えるか、
それとも悲惨や不条理を乗り越えていく方にシフトするか。
もしかしたら、作り手のほうに、自己アイデンティティーの
大黒柱が立っていない人間が多いのかもしれません。
特に芸術や文学も含めて、そういう人間がうじゃうじゃいる気がします・・・苦笑!
寅さんじゃないけれど、インテリゲンチャーや高学歴の人間は絶望しやすく、
必要以上に深刻さに陥ります。
反対に、下積みの人間や、様々な試練や苦労を乗り越えてきた人間は、
確かにそれに潰される人間もいますが、
乗り越えた人々は、なんとかなる、という
楽天性を獲得するように思います。
映画「どこかに美しい村はないか」では、
重労働の中を生きてきたばっちゃ達が
底抜けにほがらかであったこと!
ホントは厳しい現実を生き抜けていない軟弱インテリゲンチャーは
観念が先行するから、そこんとこが分かってない気がします。
だから、例えば映画を審査するキネ旬の審査員なんかも分かってるのかなあ~‥?
ただ、キネ旬も含めて、映画界そのものが
今の時代からは遅れている気がします。(いまだ昭和の映画界の延長にある気がします。)
さらに彼らは今の時代の持つ、大きな落とし穴にすら気づいていないと私は、確信します。
本当は映画作りをする人間が、敏感にきづかなければならないその現象に
誰一人としてその視点がないように思います。
そういう評論をみたことがありませんから。
それが何であるかは、書き出すと長くなるので、
今後に書きます。

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