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◆こころに沁みるイエスの言葉・その1,狭き門より入れ

さ~いよいよ師走です。そしてクリスマスがきます。 

毎年12月になると、聖書,イエスキリストの世界を書いていますが、

今年は以前書いたものを集大成として,贈ります。

大学時代に買った聖書、かれこれ50数年読み続けた聖書はもう背表紙がボロボロで、

仕方がないのでガムテープ補強し、なかはセロテープではっつけて…苦笑い!

さて昨夜はいつも通りマタイ伝から読み始めましたが、

どうも途中で眠ったらしく、目が覚めたら、聖書がベットの下にふっとんでいて、

またページが外れていて、やれやれ、とまたテープで補強しました。

昨夜聖書を読みながら、ああ、このことを書こう・・と思った言葉があります。

それはマタイ伝の13章17行の「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、

その道は広いそしてそこからはいって行くものは多い。

命にいたる門は狭く、細い。そしてそれを見いだす者が少ない。」

です。

今、私が考え込んでいることと深く交錯していく言葉です。

今私が考え込んでいるのは、

私の自我のなかにある棘や苦みや攻撃の短刀を

根こそぎ取り除いてしまおうと言うことです。

私が生まれ、育つ中でいつの間にか私が受け取ってしまった

”人間”および”人間社会”の濁りの中にある棘や苦みや懐の短刀です。

それは生まれたばかりの何も持っていない私の命が

この世を生きぬいてゆくためにいやおうもなく受け取らざるをえなかった

大人たちから渡された武器であり防衛の道具です。

しかし、それらの武器の裏には”不信”という

自分をどんどん泥の井戸の中に落とす、落とし穴が潜んでいます。

・自分の生命力を信じることができない

・自分を信頼することもできないという

愚かしい自分がどんど増幅していく落とし穴です。

さらにそういう武器をもっていれば安心だという

甘ちょろく武器に依存する心理や

現実を強迫観念的で妄想化し周囲を敵だらけとおもいこんだ

ドンキホーテの自分がいます。

人間の自我の中にスルリと忍び込んだこれらの観念がもう満杯になると

人間は動けなくなります。なぜなら、それらの武器のうらに張り付いているのは

人間不信からくる恐れや、怯えや、不安だからです。

そこには●無意識の中で、

自分の生命力も能力も、

つまり自分のなにもかもをも●劣等に扱っている自分がいます。

自分を信じられず、

あたかも自分が他者より劣っているかのような錯覚に陥っている自分です。

その劣位というプロジェクターから映し出される

偽の現実に踊らされながら

その武器を使って自分の怒りで応じている限りはまだ、生命力を取り戻すことができますが、

もう現実の壁が厚くその武器が通用しないとわかったとき

そこには出口が見つからず鬱々とした自分がヘタリこむしかないのですね。

つまり、本当は自分が持っている武器は実は他人を攻撃する武器ではなく

自分を攻撃している武器なんだと気づくひとはなかなかいません。

そしていつもお話しているように。すべては自分の脳の中でおきている現象で、

この世はすべて自分を映し出す鏡ですから見えているのは実は

●自分の無意識の世界にある自分の姿を相手の上に投影して(重ねてみて)いるにすぎません。

つまりドンキホーテと同じようにほんとうは風車なのにそれが敵にみえてしまう、ということです。

なぜなら、自分の心の底にいつも敵の姿を結んでいるからです。

敵と思い込んだのはすべて、自分が他人に投影させている自分の姿です。

つまり、もう一度いいます。

自分が自分を攻撃しているのですね。

●人間の自我のトリック!

それは自分の自我のなかにある”対立”が

自分と他者との対立へと投影されることです。

つまり本来の自分と生育期で刷り込まれた他者(特に親の自我)との間で起きた対立を

そのまま他人との関係の中に持ち込んでしまうことです。

しかし他人との間で起きたことは自分の中にその原因の根があるのだからまず、

自分の自我の中をよーく見渡して御覧なさい!・・と聖書は言っているのです。

ほんとうは自分の自我の中にある対立を取り除いてゆくことがその解決で、回答です。

自分の自我の中にある対立のいちばんの原因は親の自我が自分の中に沁みこんでしまって

自分の記憶と一体化していることです。

つまり親(大人)がもっていた恐れや、怯えや、不安や怒りや、心配や自己保身が

その反動として自分の中の棘や苦みや短刀になってしまっているのですね。

そしてそれを取り除くには強い意志と勇気がいります。

自己保身の庇護から脱出して、自分が無防備な丸腰になる”覚悟”が必要です。

では、無防備な丸腰になったら自分は敵にやられてしまうか?

そんなことはありません。だってその敵も自分が創りだしているもうひとりの自分ですからね。

さらにイエスが言います

「偽の預言者を警戒せよ。

彼らは、羊の衣を着てあなた方のところへ来るが、

その内実は強欲なオオカミである。

あなた方は、その実によって彼らを見分けるであろう。

茨からブドウを、アザミからいちじくを集めるものがあろうか。

そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

良い木から悪い実をならせることはないし、悪い木が実をならせることはできない。

良い実を結べない木はことごとく切られて火の中に投げ入れられる。

このように、あなた方がその実によって彼らを見分けるのである。」

そのとおりなのです。

自分の自我が恐れや怯えや不安を取り除いて

さらに自分の中の対立を取り除いていくと

こんどはそんなものに乗っ取られない自分が表れてきます。

素直でしなやかな自分です。穏やかで自我の棘がない自分です。

そこに見えてくるのは自分と同じように

ちいさな脆弱な自分を必至に生きて居る他の人間たちです。

もう棘も短刀も持つ必要はありません。

そして自分を痛めつけている自分がいなくなればその苦味も消えてしまいます。

イエスは更にいいます。

「行け、あなたの信じたとおりになるだろう」と言います。

さらにさまざまな愚かしい行為をしてしまう者にたいしても

「あなたは、もう、許されている」と。

愚かしい人間どうしが互いを裁くのです。しかし私たちの存在は裁かれません。

いつも肯定され何をしでかしても赦されている。

それは生命のその息吹を全うすることこそが、

私たちに与えられた最大の義務であり仕事であるからです。

そして自分というものが自分の中にあるその生命の息吹を

●産まれたときと同じように取り返す。

赤子と同じように無心に生きることを取り戻すには、

自分が直面することをごまかさずに自分を見つめるという狭く、厳しい門をくぐらなけれは

手に入れられないと、言うことです。

それは、とても厳しいしかし、愛の溢れる世界です。

         つづく!

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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