ドキュメンタリー映画はなぜ、人間の不条理ばかりを追い、
今の時代の危機に気づかないのか、
なぜ、ドキュメンタリー映画には別の可能性(芸術性)があることに
気づかないのか。
その2
おそらくほとんどのドキュメンタリー映画が、
社会や観客への問題を提起する
つまり、あなたはこの映画をみて、どう思いますか?どう感じますか?
という風にである。
しかし
私はその反対から作った。
問題提起ではなく、つまり
●答えをつくったのである。
なぜか?
つまり、そこにこそ、ドキュメンタリー映像の真価があると
考えたからだ。
これからの時代はAIテクノロジー社会へと一気に突き進むに違いない。
それが人間の滅びにむかっているとしても、一気に進むだろう。
その時、人間は、自然から生まれた生身の生態(動物)である自分と
ますます人工化していく自分との間でねじれ、恐ろしくもがき、苦しむと思う。
利便性と生産性と欲の代償として、人間はどんどん大切なものを失っていく。
そういう時今のドキュメンタリー映画なら、きっとその問題や苦しさを取り上げるだろう。
しかし私はそうではなく●答えを映画として差し出したのです。
その時その社会をどのように解決していくかの<答え>として
映画「どこかに美しい村はないか」がある。
しかもそれは、つくりものではない
ほんもの、実写として(ドキュメンタリー映画として)
人間の真実をして、あるのである。
だからこそ、その、ほんものが、消えないうちに能勢監督に撮ってもらい
映画にしたのですよ。
押し寄せてくるAIテクノロジー社会の中で、
押しつぶされそうになった時こそ。
この映画を見てほしい。
ここに答えがあるよ!って。
こんなに人間がイキイキと生きた時があったのだよ。
こんなに美しい自然と一緒に人間が働いていたんだよ。
とね。
しかもそれは、実写として,リアリティーをもってさ!
私はこれこそが、実写を撮る、という、
ドキュメンタリー映画の使命であり、本領であると思う。
これからのAIテクノロジー社会が進む一方では
人間の自然性や社会の自然性が奪われることに
断固として抗う人々がいる。
その一つに自然栽培という事がある。
この人々のアナログ性こそが、一つの希望としてある。
ここを足場に、人間が人間らしく生きる社会を
再構築してもらえたら嬉しい。
そのささやかな一端をになえたら、嬉しゅうございます。
というわけで、この映画を作りました。
私が死んで後、そういう時代が来た時こそ上映してね、と
能勢監督にはお願いしてある。
皆さんも、よろしくお願いいたします。

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