例えば韓国の映画監督のイ・チャンドン作「ポエトリーアグネス」の主人公アグネスは<解>を求めて歩き回る。
しかし最後はしっかりと<解>を掴んで映画は終わる。
つまりそこには、映画の進行の中で観客と一緒に考えるイ・チャンドンがいる。
私達に、寄り添っているイ・チャンドンがいる。
そして一緒に出口を探す時、自ずから解=光が見えてくる。
その姿勢は名作「オアシス」や「シークレット・サンシャイン」に於いても同じで、その<解>こそ、
イ・チャンドン氏自身が自分と格闘し、
更に人間とは何か、社会とは何か、そして生きるとは何か、という命題との葛藤の中から掴んだ、
ある普遍的な<解>であると私は思う。
だからこそら、観客も難解な映画に必死で向き合い<解>を掴もうと格闘する。
「オアシス」は、障害をもち健常な身体的自由を奪われ、
言語すらままならない男女の中に、
実はそれらの不自由さを遥かに超えた無意識の交流がある事を、私達は突きつけられる。
しかし突きつけられた私達は、決して不快になるどころか、むしろ新しい認識を得た喜びがある。
つまり「オアシス」も「シークレット・サンシャイン」も「ポエトリーアグネス」も、
イ・チャンドン監督が、私達観客へくれた贈り物なのです。
難解であるが、しかし複雑に入り組んだパズルを解いてゆくからこそ、
重層な人間の意識の奥にたどり着き、深い感動が湧いてくる。
それは、ベルイマンの「ファニーとアレクサンドル」やダルデンヌ兄弟監督の「ロゼッタ」もそうであったと思う。
残念ながら「解」を持たないまま、観客に、宿題を預けてしまうのは甘えだと私は思う。
甘ったれルナ、ギリギリまでに突き詰めたものをもってこい、と私は思うのです。

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