夏目漱石の短編に「ガラス戸の中」というのがある。
私が最も愛する漱石の作品である。
ガラス戸の内側にいる漱石が、
ガラス戸の外の世界(世の中)をジーっと見つめながら書いている、
エッセイ風の小説です。
私自身もいつも、漱石と同じように居間の椅子に座り、
じっとガラス戸の向こうの世の中を眺めている。
眺めながら、あれこれと考えている。
それは世の中を突き放した私の目線であり、
思惟の中に沈みながら「解」を探している自分がいる。
他者や世の中と、どう向き合って生きるべきかを考え続ける私に「解」をくれたのは、
ジャン・ジャック・ルソー、そしてジークムント・フロイト、さらに
ドストエフスキーであり、漱石であり、
また眼からウロコであったのは、社会学者見田宗介氏のことば、
『夢から醒める、ということが
感動の解体であるばかりでなく、
いっそう深い感動の獲得でもある。』
であった。
近代の思想史はまさにルソーから始まる。
ルソーの書いた人間の根源的な<自由>こそにあのカントもキルケゴールも大変な衝撃を受けて思索を始め、
そこから近代思想が扉を開いゆき、そして自由、平等、の市民革命が起き、
近代デモクラシーの扉が開いていきました。
そしてフロイトは<無意識の世界>を発見し、
そこからは心が織りなす模様とはなにかの精神分析の扉が開いていった。
今脳科学の進歩において、脳科学が脳のハード部門(脳の機能部門)を解析するものだとしたら
フロイトの精神分析世界こそが、脳が作り出す<ソフト世界>を解析できるツールだと私は考えます。
さらにドストエフスキーは、キリスト教と唯物史観のハザマで近代が混乱する中、
人間が他者とどう向き合えばいいのかを、模索した。
そこには、ドストエフスキーが、身を捩り、絞り込むようにして見つけた「愛」の世界がありました。
漱石からは、知性や理知の世界はどうあるべきかの教授をうけながら、
私は考え続けたと思います。
そして見田宗介氏の言葉は、
脳が作り出す幻想の世界から「醒める」という事が、
現実の中でいかにもがき、あがこうとも、
それはもしかしたら残酷な真実であるかもしれないが、
しっかりと凝視することが
いっそう深い感動の理知の世界でもあることを教えてくれた。
それらを踏まえながら、
私の眼には、今、世の中は妙に奇形化しているように見える。
勿論人々の中には、うっすらとそのおかしさに気づいている人もいると思うが。
大きな歴史的視点からをパノラマ的に俯瞰して見渡すと、
私には今の世の中が、中世に重なって見えるのである。
なにか突拍子もないようなことを言うようであるが、
正確にいうと、中世が暗黒に至った道と同じようなものを
今の世の中に感じているのである。
中世とても、
いきなりあの暗い時代になったのではない。
時代が知らないうちに少しずつその淵にはまりこんで行ったのであるが。
まさか、今は中世とは違い、科学万能の世界になってきているではないか、
むしろ先端科学のAIテクノロジーの社会になるはずだぞ、と言われそうですが、
確かにその通りではある。
時代はどんどん先端科学に吸引されていくであろう。
が、しかし今巷で流行っていることは
あの中世のように、非現実世界の文化が横行している。
あのオーム事件があったにもかかわらず、
日本の民は凝りもせず、死語の世界や神秘の世界などが勢いをぶり返し、
いまだに架空の世界や
魔法や魔術、占いや、神秘主義や、非現実的宗教や、
異界や異次元といういう奇妙なモノたちが
アニメや漫画や映画やゲームの世界で跋扈している。
もうそれが当たり前にこそなりつつある。
おそらく今、それに対する警告を言っても誰も、
そうは思わないと反論されるだろう。
しかし世の中がある種のマインドコントロールを受けだすと、
あれっ、へんだな~と微かに心をかすめたものが
いつの間にか、変じゃなくなるということになる。
非現実なことが、世の中の人々の深層心理の中を蔽いつくす、それが
中世社会で起きた現象であり、それはルネッサンスなどがおきるまで
世界はその暗黒に淵へと覆いかぶされていたのです。
古代社会が科学的、合理主義的世界であったのにくらべ、
中世は、閉鎖的、内向的世界へと向かい、架空世界、非現実的世界、さらに
神秘や魔術や占いや迷信や・世界へと逆行してしまった。
最後には精神の自由が奪われ、互いを見張りあう封建社会を作り出していった。
これからの社会がおそらくそういう事にはならないことを願いつつ
少しずつ書いてみようと思います。
本当は社会学者が今の社会現象の異常さに気づいて、
取り組間なければならない仕事なんだけどな~。

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