こんなに便利で、清潔で、物が溢れているのになぜ、人は争い悩むのか・あとがきその1

実は、私がもう自分の年金を全部つぎ込んで

映画「どこかに美しい村はないか」を作ったのは、

脳の観点から、どうしてもAI時代に危機感を感じたからです。

その事を

「こんなに便利で、清潔で、物が溢れているのになぜ、人は争い悩むのか」シリーズの

「あとがき」として、書きたいと思いますが、その前に

作曲家の野村朗先生から送られたきた映画の感想を

ご紹介させてください。

そのご感想を踏まえながら、次回そのことを書きたいと思います。

『先生の映画「どこかに美しい村はないか」を鑑賞させていただいて感じたのは、

田を耕し、あるいは林檎を作り、お豆腐を作って働く人々が

「群像」でなくお一人お一人が主体性と意志を持って働く

「個人としての人間」として描写されていることの「凄み」のようなものでした。

輝く笑顔の意味に「私は日々、戦って、この人生を選択し、獲得し、歩いて来た」という

自負があり、そこに人間の意味と尊厳を見ました。

NHKの番組が俯瞰しつつ美化して終わっているところを、

更に踏み込んで「私はこの人生を選択し、

今日まで力強く歩いて来ました」との「お一人お一人の生き、暮らし、

その集合体として村があり、地域の人と人との暮らしがある」と感じました。

そして突然に気付かされたのです、

茨木さんの詩「6月」の世界がそこにあるということに。

私たちはみな、自分自身については「個人」として捉え、

歩んできたたったひとつの人生を自負を持って

(時には過ちや後悔、哀しみや怒りに任せた時も有りながら

全てを自らの歩んできた結果として受け入れて)生きています。

にもかかわらず、ややもすると他の多くの人々を「群像」として捉えがちです。

私と同じようにたったひとつのかけがえのないいのちが田下先生にも、

どなたにも、全ての人々に満ちているという深い真実の上に立脚する

「人と人との結びつきはないか?」との問いとひとつのこたえが

この作品のように思いました。

うまく表現できなくてすみません。でも、見終わった後から考え、気づき、

静かな感動が潮が満ちるように静かに満ちてくる、不思議な映画でした。

ありがとうございました。』

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この記事を書いた人

作家。映画プロデューサー
書籍
「原色の女: もうひとつの『智恵子抄』」
「拝啓 宮澤賢治さま: 不安の中のあなたへ」
映画
「どこかに美しい村はないか~幻想の村遠野・児玉房子ガラス絵の世界より~」

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